風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「イエス・キリストの信仰による神の義」(ローマ人への手紙3:22)(夫の卒論から)

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ちらちら読んでいて、「ハイデルベルク信仰問答第59−61問で引証されている聖書の箇所の中で、もっとも義認の構造がはっきりと記されていると思われるローマ人への手紙第3章21−28節の釈義を行い、どのような義認の理解が聖書的か考えてみる」と記されているところの22節の聖書訳がイエス・キリストの信仰による神の義」と書かれていたので、この訳はどこからのものか次の面会で問い質そうと思い、下調べをしていると・・。

 

この前の面会では、卒論のファイルを持って行って、テーマや名前や年月日を見せて読み上げた。「思い出してきた?」と聞くと、うん、うんと頷いた。

 

そこで、ハイデルベルク信仰問答第59−61問で引証されている聖書の箇所の中で、もっとも義認の構造がはっきりと記されていると思われるローマ人への手紙第3章21−28節の釈義を行い、どのような義認の理解が聖書的か考えてみる」って書いてる所の聖書訳がイエス・キリストの信仰による神の義」ってなってるんだけど、口語訳も新共同訳もほとんどが、「イエス・キリストを信じる」「信仰」っていう意味に訳してるんだよね。「イエス・キリストの信仰」っていうのは、どこから取った訳なの?と一旦尋ねてから、「ギリシャ語の聖書からあなたが直接訳したの?」と尋ねると、うん、うんと頷いた。

 

やっぱりそうだよね、そうとしか考えられなかった。

 

夫は語学が苦手でコンプレックスを持っていた。だから余計というか、神学校を卒業してからもギリシャ語やヘブライ語?の基礎を自分で繰り返し勉強していたのだ。

私にもヘブライ語を教えることで自分も勉強しようと企てたことがあって、料理のレシピノートの片隅に私もヘブライ語を書き込んだりしていたりする。が、私は基礎的な勉強をコツコツ積み上げていくということが出来ない質なので(笑)、いつの間にか勉強も立ち消えになった(笑)。

 

 

さて、卒論の中には書かれていないのだが、下調べの段階でか、ジュネーブ教会信仰問答』についても触れているところがある。その中に夫の文字で書き込みがしてあった。義認も三一論的 ー 狭いホライズンではダメ!!」と。

 

確かに、ローマ人のこの部分を「キリストの信仰」と訳すなら、誰に対する「キリストの信仰」なのか?ということが問題となってくるだろう。ここで三位一体という概念が必要となってくる。「キリストの(父なる神への)信仰」と。

だから、説教で、「信じることにおいても、イエスがわたしたちに代わって十字架に至るまで神を信じ抜いてくださったのです」と語るわけだ。

 

下調べの書き込み等を見るとかなり突っ込んで考えていたように思えるが、卒論自体は控え目にまとめたようで、「論述は、おおむね穏健である。突出した記述はなく、無難にまとめていると言える。しかし、それは、逆に言えば、平凡すぎるということでもある」として「70点というところ」と評価されていた(笑)。

 

しかし、この部分を「キリスト信仰」と訳したこと自体が大きいと私は思う。

 

イエス・キリストを信じる信仰による」(口語訳)とか「イエス・キリストを信じることにより」(新共同訳)という訳では、いくらでも律法主義的な信仰に陥っていくだろう。こういう訳で律法主義に陥らないようにすることの方が難しいと言えるのではないだろうか?

 

 

卒論の中で、カルヴァンの『信仰の手引き』を引用している箇所がある。

 1537年に出版された『信仰の手引き』の第14項から第16項においてカルヴァンは、信仰と義認について述べている。

 第14項「まことの信仰とは何か」においてカルヴァンは、「信仰とは、心の内の鞏固で確乎たる信頼であり、私たちはこの信頼によって、福音のうちに約束された神の憐れみに、確信をもって固着するのである。このように、信仰の定義は、その約束の内容からなされねばならない。信仰は約束という基が取り払われるときには、ただちに転落し、むしろなくなってしまうほどに、この基に依存している。と記している。

 

こういったところから、説教の中で夫は、「わたしたちの信仰が救いに先立つのではありません。救いがあって、信じるのです」と語っていたと考えられる。

 

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この箇所はいわゆる信仰義認の根拠となる出来事として有名な箇所です。

 

(略)

 

 なぜアブラムは主を信じたのでしょうか。自分が信仰を持ったときのことを考えてみました。

 わたしはキリストの復活を信じて信仰を持ちました。ですが、これを他の人が納得できるように説明することはできません。

 

(略)

 

 神のご計画は、アブラムの期待や予想とも違いました。しかし、アブラムは主を信じました。そして、主はこれを彼の義と認められました。

 義というのは関係の正しさを表す言葉です。神の民は神を信じるのが正しい関係なのです。

 疑っても、迷っても、つぶやいても、後悔しても大丈夫です。神は、信じることへ立ち帰るように、わたしたちに語りかけ、信じられるまでご自身の真実を注ぎ与えてくださいます。

 神の言葉、そして神の真実が、わたしたちを信じる者としてくださるのです。そしてわたしたちは、神との正しい関係の中に入れて頂くのです。

 

 

 

 

 私自身を顧みるならば、過去においても現在においても罪と無縁ではなく、たとえ自分の思いはどうであろうとも、罪に傾いて生きている。(夫の卒論から)

 

 

唐藤空木