風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

夫の卒論(「信仰義認」)についてしつこく

卒論の第3章に「和協信条の信仰義認の理解」とあって、聞き慣れない信条だなと思い、調べると、宗教改革当時のルター派教会の主要信条の内で、最後に出されたものである。一致信条とも言う」(ウィキペディアと書かれていた。聞き慣れないはずだ。

 

しかし、ここで、

 これらのことについて、さらに和協信条の根本宣言の第3条から理解したい。
 義認は、ただ純粋の恵みにより、我々の主キリストのみの功績、全き服従、ひどい苦難、死、復活のみのゆえのものであって、キリストの義が我々に義として帰せられるのだ、と記している。このキリストの義は福音を通して、また聖礼典において、聖霊によって我々に差し出され、信仰のみによって適用される。(卒論から)

と記されていて、「主キリストの全き服従という言葉が出て来ている。ここから、「キリストの信仰」へとつながると思われた。

 

この後のところには、ギリシャ語らしきものが書かれているので、写真で掲載する。

夫は、ギリシャ語やヘブル語のソフト?だかがあるからとパソコンは最初からマックを使っていた。それで、初期の頃の『聴く』のタイトルにはギリシャ語やヘブライ語を載せていた。こんな風に。

 


4章では、ジャン・カルヴァンの信仰義認の理解」ということで、『信仰の手引き』ジュネーブ教会信仰問答』キリスト教綱要』を取り上げ、6ページに亘って言及している。

よくやったよね、と思う。私なら途中で飽きてた(笑)。

 

第5章は、「ベルギー信仰告白の信仰義認の理解」。この20条には、「(略)それは、御子が不従順がなされた本質を引き受けるためであり、その同じ本質において償いをなすためであり、御子自身の苦難と死によって罪の罰を耐えるためである」と記されている。

いや〜、この訳はなんなんだ(怒)。私なら、もうここで放り投げている。

 

第6章と第8章がハイデルベルク信仰問答の釈義で、第7章がローマ人への手紙の釈義。

 

7章の結論部分では以下のように記している。

 この箇所からは、ルター、メランヒトン、和協信条のように信仰もまた義であるというような理解は出てこない。義はどこまでも神の側にあって、我々はそれを信仰を通して受ける、というのがこのロマ書第3章の理解である。(卒論から)

 

しかしこういう結論に至ったのは、22節を「イエス・キリストの信仰による神の義がすべて信じる人に対して与えられる」と訳したからだと考えられる。

 

ただ、この部分には、「キリストの信仰」と、「キリストの信仰による神の義」を受け取る「私たちの信仰」の二つの信仰が語られているので、混同しやすくなると思われる。

 

myrtus77.hatenablog.com

 信仰者に与えられている救いとは、パウロの言い方をすれば、律法の行いによってではなく、信仰によって、恵みによって与えられているものである。この真理を彼独特の表現で記している。

 

(略)

 

このお説教は録音から聞き起こしたものでなく原稿から書き起こしたものなので、実際に語られた説教からは落ちている事柄がある。

「この言い方は、誤解される可能性のあることに気づいている」ーこの部分なども簡略化されている。

実際は、「パウロは?(この部分きちんと記憶していない)ではなく、むしろ敏感な人でした」という風に語っておられた。だから誤解される可能性があることに気づいていた、というのである。

パウロの思考は弁証法的だと思えた。

このお説教は「信仰義認」について語っておられる説教だと思うが、「信仰義認」というのは弁証法的捉えが必要になるのではないかと思える。