風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

 「わたしたちの希望」(ローマの信徒への手紙5:1~11)

以下に、神学生の最後のお説教を掲載させて頂く。

 「わたしたちの希望」

 2023年8月20日(日) 聖霊降臨節後第12主日

聖書箇所:ローマの信徒への手紙  5章1節~11節

 パウロは、主イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んで、わたしたちが義とされるために復活された、と、1章から4章までの結論として言っています。これを基礎として、喜ばしい人生がはじまると、5章から語りはじめます。

 

 わたしたちは神との間に平和を得ている、とはどういうことでしょう。聖書が教えるまことの生ける神は、人間の不信心と不義に対して怒りをほうっておかれませんでした。ただ、神の赦しの愛の方が神の怒りにまさっていたゆえに、神の怒りを直接人間に向けずに、そのひとり子イエス・キリストに向けました。すなわち、十字架の出来事は、父なる神が人間の身代わりに、ひとり子主イエスを十字架にわたし、神の怒りの対象としたということです。そのことの故に、人間はその罪にもかかわらず、怒りの対象となることをまぬかれて、罪を赦された、そこから神との平和がはじまります。

 

 聖書の信仰は、神の救いの御業そのものを信じるということです。わたしたちは、信仰によって義とされたという過去の恵みの体験も、現在の神に対して平和を得ている恵みも、どちらもイエス・キリストの仲立ちによってわたしたちの手に入れています。それは 自分の力によるのではないのです。恵みは、神の純粋で、わたしたちには、受けるに値しない、功績によっても得られない、信じられないほどのいつくしみです。自己中心の道を歩んできたわたしたちに、キリストの仲立ちによって、神にいたる道が開かれたのです。道はすでに開かれて、その恵みの中に入り、しっかり立っている、それが今のわたしたちです。

 このような、恵みに導き入れられ、神との交わりの中に立っているわたしたちは、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。希望を誇りにしています、という言い方を、口語訳では希望をもって喜んでいる、と訳しています。喜んでいるということの中には誇りとしているという気持ちが入りまじっているからです。ここでいう誇りは、もとより、高慢になったり、思い上がったりすることではありません。

 神の栄光にあずかる希望をもっている、とは、すなわち、再び神の栄光を回復する希望を生み出しました、と言えます。それは、終末において救い上げられるときの私たちの姿が、確かに神の御子キリストと同じ栄光の姿であるから、そういえるのです。神の栄光を望んで喜ぶのではなく、栄光にあずかる希望です。希望というと、将来手にするもので、現在のものではない、といわれるかもしれません。しかし、将来のものを、いま、すでに持っているという、そういう確かなことなのだと、パウロは言っています。

 そればかりでなく、患難をも誇りとする、と言います。聖書には、多くの場合、主イエスをキリストと告白するがゆえに受けなければならない苦しみが記されています。信仰告白から生まれてくる苦しみがあるのです。キリスト者の人生には圧迫や困難は付き物だと言えます。

 パウロの経験した苦しみは、自分のためにではなく、キリストのための患難へと変わっていきました。キリストの力が弱さの中で発揮される、と言います(コリント二12:9以下)。そして、誇るのは肉体のとげだけでなく侮辱も、とあります。それはキリストのために苦しみを受けたからそう言えるようになったのです。

 ここで、苦難の中で、誇りをもって喜んでいる、といわれるのは、苦難は神がわたしを愛して与えてくださる訓練であると信じること。そこに愛があることを認めることによって忍耐することです。希望は、このような辛抱強い忍耐と神への信頼に基づく確信を裏づけとして生み出されるということなのです。

 ですから、そのような希望はわたしたちを欺くことはありません。これは、キリスト者の希望は恥をかかせるような失望はない、とも訳せます。つまり、その希望は、それをもつ者を、最後になって、誤った希望を抱いてきたのではないかと当惑させることはない、というのです。希望とは何でしょう。砂漠を進む隊商は、しばしば蜃気楼を見ます、しかし、近づくとオアシスはこつぜんと消える。その旅人の複雑な心情をおしはかるしかないですが、希望はそんな幻想ではありません。人は希望を求めます。そんなとき、ヴィクトール・E・フランクルの(ナチス・ドイツ強制収容所からの生還者、精神科医・心理学者)『夜と霧』を開くことがあるのではないでしょうか。「希望、それは、生き延びる見込みなど皆無のときに、わたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ」という言葉があります。この著作には、生きる意味と希望を求めていく手がかりを見出す、真理があると、言われます。

 キリスト者のわたしたちには、希望を確かなものとして、聖書から示されているのです。苦難の中で、わたしたちが神を見上げてあきらめずに事柄に取り組んでいく、そうしていくならば、危機が訪れた時、希望に輝いた眼をもってことに当たることができるのです。それは、キリスト者の希望は神の愛に根ざしているからです。つまり、神は、人をほろびから命へと道を開き生かしてくださるお方だからです。人の希望が神の愛のうちにあるとき、神はわたしたちを、永遠の力で裏づけされた永遠の愛をもって愛される、それゆえ、けっして失望に終わらないのです。

 

 神の愛をわたしたちの心に注いでくれたのは、「聖霊」です

 わたしたちに対する神の愛は、ただイエス・キリストの十字架において明らかにされた神の愛だけではないのです。現在そそがれている神の愛があります。すなわち、「わたしたちに与えられた聖霊によって」現在わたしたちに神の愛はあふれるばかりに注がれています。わたしたちが、自分の罪を認めて悔い改めて、イエス・キリストを私たちの救い主と信じて受け入れたとき、聖霊がそれぞれの「心」に与えられました。そして、コリント二1:22「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」とあるとおりです。

その「神の愛がわたしたちの心に注がれている」のです。それがわたしたちに分かり、わたしたちはそれを感謝をもって受ける、という心の交わりが成り立っているのです。

 このようにして、今ではわたしたち自身も神の愛が注がれる“的”であることをはっきりと知ることができます。なおさら、わたしたちの希望は決して失望、落胆することがないのです。

 神の愛こそ、わたしたちの希望を確実なものとするのです。

 キリストの誕生と死は、神のご計画によるもの、神は人々の救いの御業を成し遂げられただけでなく、人々に対する神の愛を具体的に示されました。

 キリスト者として生きるというと、自分の強さに少しも頼らず、弱いものとしてひたすら、救いに身をゆだねるという生き方をするのではないでしょうか。しかし、振り返ると、主イエスのものとなる以前のわたしたちは、飼う者のいない羊のようにあわれで弱く、自分のことをどうすることもできない弱い存在でした。時代で見ると、イスラエルにとって救いが見えない時代、それが、神にとって救いの御業をなさるのにふさわしい時代だったのです。主イエスは伝道を始めるにあたって、「時が満ちた」と言われました。罪が成熟している、そういう時に主イエスの十字架の出来事が起こり、主イエスが死んでくださったのです。

 

 主イエスの十字架の死は歴史上実際に起こったのですから、神の愛が、現実に明らかにされたのです。ここにわたしたちの希望があります。

 神の怒りが向けられる不信心な者たち、神にそむいて人生の軌道をふみはずした罪人のためのために主イエスは死んでくださった、そのことによって神は、わたしたちに対するご自身の愛を、わたしたちがそれを信じて受け取ることができるように示してくださったのです。

  それで、今やキリストの血によって義とされている、というのは、

 キリスト者のわたしたちの現在を考えてみると、過去から、弱さから、そして何より罪から解放されています。主イエスが私たちの過去の罪を帳消しにしてくださったからです。義とされているということは救い出してくださっているということです。主イエスの十字架によって義とされる出来事がわたしたちの救いの原因となっているのです。

 しかし。義とされるということ、救われることはすでにそれが完成しているということではありません。救いの完成は終わりの日にいただくのです。フィリピ3:20「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのをわたしたちは待っています。」これがわたしたちの救いの保証といってもよいでしょう。主イエスの十字架によってすでに、今、その保証を持っているのです。神が保証してくださるのだからまちがいはないのです。神の怒りから救われるのはなおさらのことです。

 では、わたしたちに向けられている神の敵意はどうなるでしょう。敵意とは神とわたしたちの関係が崩れてしまっているということです。神の愛は罪人を愛する愛です。しかし、愛である神は同時に聖である神なのです。聖である神にそむく人間に神の敵意が向けられます。わたしたちが神にそむいていることは困ったことなのです。そんなわたしたちに、神がイニシャティブをとって仲直りをしてくださったということ、それが和解です。それは、主イエス・キリストのあがないの死によって可能になったことで、わたしたちはただ和解を受け入れることができるだけです。すべてのことがらは神の愛から発しているのです。パウロをみるとわかるのではないでしょうか。パウロが主イエスに出会ったのは、教会・キリスト者を迫害する戦いの中でのことでした。そこでパウロは和解を受けたのです。和解について、神が人間に差し出してくださる恵みは、一つは義認、もう一つは平和、言い方を変えると和解です。平和と和解には違いがありますが、結びついているものです。

 

 さらに積み重ねる恵みとして、「御子の命によって救われる」といわれます。御子の命は主イエス・キリストの復活の命です。救われるということは、死から救われる、ということです。主イエスの死によってあがない出された者が、主イエスの命によって、終わりの日に、死から救い出されるというのです。

 そして、終わりのさばきのときに救われる望みと主イエスの復活とが結びつけられます。コリント一15:20「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。ですから、主が復活なさったことを考えると、わたしたちも終わりの日に、必ずその後について、命によみがえり、救いに入れられるのだという希望がはっきりしてくるのです。確かな希望がみ言葉から示されています。わたしたちは、終わりの日の救いが確かであることを信じ、希望をもって待ち望んでいます。そのため、神が約束しておられる栄光のゴールをめざして耐え忍ぶことができるのです。

 

 最後に、

 わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。わたしたちに和解を得させてくださった神の恵みを考えると神を誇り、喜ぶのです。

「人のおもな目的は、何ですか」と『ウェストミンスター小教理問答』第一問にあります。その答えは「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」であることが究極的な目当てとして書かれています。

 

「神を喜ぶ」ことを古の詩人は歌っています。詩編43:4

神の祭壇にわたしは近づき わたしの神を喜び祝い
琴を奏でて感謝の歌をうたいます。 神よ、わたしの神よ。

 

 現実にわたしたちは、神を信じているといいながら喜びが少なく、多くの悲しみ、苦しみ、つぶやきと疑いの中にしずみがちな者です。しかし、わたしたちがそのような自分にこだわり思い煩うのではなく、主イエス・キリストの死を通して、神ご自身が私たちと和解してくださり、わたしたちを神の子として受け入れてくださった驚くべき恵みの御業を思い、わたしたちの大いなる喜びの神であることを繰り返し確認することができるということでしょう。

 わたしたちの大いなる喜びの神の御手にあって、今わたしたちは生かされ、またわたしたちに起こってくるすべてのことは営まれているのですから、わたしたちはそのことのゆえに神を喜ぶことができ、また将来に向かってはっきりとした希望をもって生きることができるものでありたいと願います。

 

「希望というと、将来手にするもので、現在のものではない、といわれるかもしれません。しかし、将来のものを、いま、すでに持っているという、そういう確かなことなのだと、パウロは言っています。」

こういうパウロの逆説的な思考をよく捉えて伝えておられる。

 

「主イエスの十字架の死は歴史上実際に起こったのですから、神の愛が、現実に明らかにされたのです。ここにわたしたちの希望があります。」

ここでは、「神は、キリストによって歴史の中に介入される神である」というバルト神学を思い浮かべた。

 

そして最後は、

「救われるということは、死から救われる、ということです。主イエスの死によってあがない出された者が、主イエスの命によって、終わりの日に、死から救い出されるというのです。」

ここに至った。

 

 

 

 

詩=八木重吉(松浦忠孝写真集「ユーオーディア」より)