風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

語る者の信仰の限界が現れ出ているような説教。しかし説教は・・。

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 パウロは祈りを込めてこの手紙を書いただろうと思います。それは今、遠くにいる人とも電話で話せる、会いに行くことだってできる、そういう時代に生きているわたしたちには、想像できないくらいの思いだろうと思います。

 まだ会ったことのないローマの教会の人々、ローマに旅した主にある兄弟からその教会の様子・人々の様子を聞いて、「手紙を書かなくては」そう思って16章にも及ぶ長い手紙をしたためました。キリストを信じて集った人々が、キリスト以外のものに望みを置いて恵みを失うことがないように、神が注いでくださる恵みのままに救われ喜ぶことができるように、そのことを願って書いています。

 「イエス キリストがあなたの救い主なのだ、キリストは人となって世に来られ、十字架を負い、そして復活されたのだ。あなた方はこのキリストと一つにされている、そのことを知らなくてはならない」。そのような思いでパウロはこの手紙を書いています。

 

今日代読して頂いた2018年10月21日のこの説教は、理屈に傾いたあまり良い説教ではなかった。

 

最後に着地した

「わたしたちは、神がわたしたちのために遣わされたイエス キリストを救い主と信じ、キリストにすべてを委ね、キリストを仰いでキリストを見つめて生きればよいのです。そのとき、わたしたちは律法からも自分自身からも解き放たれ、キリストのものとなり、神のために実を結ぶに至るのです」

 

この部分には、夫の限界が現れ出ているようであった。

 

私たちには「キリストにすべてを委ね、キリストを仰いでキリストを見つめて生き」ることが出来ないから、キリストは十字架にかかられたのだ。

 

パウロは祈りを込めてこの手紙を書いただろうと思います」の件で止めておけば良かったのに、と思う。

 

この説教で聴き取るべきは、以下、

自分には生きる意味があるのかとか、生きる価値があるのかとか問う必要がありません。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。

 神がひとり子を遣わし、その命を献げて贖いを成し遂げる。その出来事の中に、わたしたちの存在する意味も価値もあるのです。わたしたちの命の意味も価値も、自分自身で作り出すのではなく、作り上げるのでもなく、わたしたちを愛していてくださる神の出来事の中に、既にわたしたちの生きる意味も価値もあるのです。神はそれをひとり子イエス キリストを世に遣わして、その十字架と復活によって証しをしてくださいました。「わたしはあなたのためにひとり子を遣わす。あなたを裁くのではなく、救い主を裁くことによってあなたの救いを成し遂げる。死を討ち滅ぼす。わたしと共に生きられるように、わたしは救いの御業を成し遂げる。あなたを愛しており、あなたと共に生きたいと切に願っている」。だから、イエス キリストは生涯、その神の御心をわたしたちに語り続けてくださるのです。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。

ここの部分はとても良いのにね。

最後の二段落が余計だった。

 

しかし説教は、土の器を用いて語られる。完全な説教などないのである。

 

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 もう一つ大切なことは、神は間違いを犯す人間を用いられる、ということである。一体誰が、欠けなく過ちなく説教できるだろうか。神の御心を完全に語れる人など一人もいないのである。それでも神は、不完全な罪人の説教を用いてキリスト者を起こし、救いの御業をなしてこられたのである。

 

今日は、雨。

 

窓辺にハナミズキ

 

私の夫は、最も近くに、自分を刺し貫く刀を持っていたかもしれない。



誰かが持って来たイースターのエッグスタンド。左端、麦の穂が描かれている。