風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

牧師は人格者であるべきか?(説教について、ちょこっと)

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(コリント人への第二の手紙4:7 口語訳)

 

牧師は人格者でなくてはいけないだろうか?

否!だと言える。

むしろ、牧師を神のように崇め始めることにこそ問題があると言えるだろう。

 

万人が喜ぶ説教などあり得ない、と思える。

しかし、時に、牧師の説教が聞けないということがある。どうしてだろうか?

語る者に罪の自覚がない場合は、他者が聞いてどんなに素晴らしく思えるという説教であっても聞けないだろう、私の場合は。

被害者意識を強く持っている人は自分の内なる罪を認めるのは難しいだろうと、私には思える。

 

逆に、説教がどんなに拙くとも、この一点が感じられるなら、聴くことが出来る。

 

 

もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。(ヨハネの第一の手紙1:8~10 口語訳)