主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。主は言われた。「アモスよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「一籠の夏の果物です。」主はわたしに言われた。「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。(アモス書8:1~2)
アモス書の説教は夫は札幌時代にしたと思うが、説教の中身は全く記憶にない。原稿も残っていない。けれど、この「一籠の夏の果物」というフレーズだけは私に詩的興味を引き起こし、記憶の中に鮮明に残している。
訳を読み比べるのが好きなので、口語訳はどうなっているのかと思って、開くと、5章までの頁には書き込みがしてあった。ということは、夫はアモス書6章以降を札幌に行ってから、新共同訳を使って説教をしていたということだ。
夫は、中学の化学の教師になろうとしていたそうだが、友人から「え?君は化学より歴史の方が得意なんじゃないの?」と言われたと言っていた。
そんな風だからか、旧約を語る時などは特に歴史的時代背景を重視して語っていたのではないかと思う。私は、聖書にしても、歴史的背景など無視して文学的に読み取るほうなのだが。
日曜の長老のお説教は、丹念に時代背景を下調べしたがっちりと堅固なお説教であった。こういった説教にじっくり耳を傾けるなら、私たちの信仰は堅固に養われるだろうと思われた。
しかし私は、説教はどういうタイプの説教でも構わない、と思う。そこに福音さえ語られているなら。むしろ、様々なタイプのお説教に触れることによって、信仰が豊かに育まれるように思える。
このことを聞け。
貧しい者を踏みつけ
苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」(アモス書8章4~6)
神の裁きの対象はいつでもはっきりとしている、と思う。
その日が来ると、と主なる神は言われる。
わたしは真昼に太陽を沈ませ
白昼に大地を闇とする。
わたしはお前たちの祭りを悲しみに
喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え
どの腰にも粗布をまとわせ
どの頭の髪の毛もそり落とさせ
独り子を亡くしたような悲しみを与え
その最期を苦悩に満ちた日とする。(アモス書8:9~10)
神様が、どれほどの痛みや苦悩を持ちながら、私たちに独り子を差し出してくださったのか、このことを、北イスラエルの人々の「独り子の死」の持つ絶望と重ねて見つめたいと思います。そのことによって、心が鈍い私たちにも神様の愛がどれほど大きいものであるかを知ることができるのではないかと思います。(https://myrtus77.hatenablog.com/entry/2022/09/25/201141)
豊穣と滅びと痛み盛った籠見えるかアモス!ちいさき双葉も
このころには、専門教育を受けた預言者もいたようですが、アモスはそうではなかったようです。プロではない、いわゆるアマチュアの預言者でした。そのことは、7章、今日お読みした聖書の手前の1438ページの下の段、14節に書かれています。読んでみます。
「アモスは答えてアマツヤに言った。「私は預言者ではない。預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、イチジク桑を栽培する者だ」
続く15節、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」とあります。
前後して恐縮ですが、1章の冒頭には、「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉」と記されています。
つまり、アモスは、テコアという村で、羊を飼ったり、家畜を育てながら、イチジク桑を栽培することを生業にしていましたが、神様に召しだされ、召命を受けて、イスラエルの都に出ていき、神様からの預言を人々に伝えたのです。
注解書によると、ヘブライ語では、普通の羊飼いは「ローエー」と書くようですが、ここでは「ノーケード」という「飼育者」という言葉が用いられているようです。また家畜を育てるとありますが、当時の代表的な家畜は、牛を指していたようです。そのため、羊飼いというと、経済的には貧しいイメージがありますが、アモスは羊や牛を育て、繁殖させるような仕事をしていて、経済的には豊かであったと考えられています。(https://myrtus77.hatenablog.com/entry/2022/09/25/201141)
「専門教育を受けた預言者」というのは、今で言えば、牧師のことだろうか?
律法学者というのは捕囚期以降から新約時代にかけての人々だから、律法学者が「専門教育を受けた預言者」だったということではないだろう。
一籠の夏の果物見えるか!と声が聞こえるうつくしき声
かのサマリヤのアシマをさして誓い、
『ダンよ、あなたの神は生きている』と言い、また
『ベエルシバの道は生きている』と言う者どもは
必ず倒れる。再び起きあがることはない」。(アモス書8:14)
これは、「生きて働かれる神」を自分たちの都合の良い偶像の上に見出そうとする者たちへの激しい審きの言葉だと言える。