「恐れなく喜ぶ」
聖書箇所:マルコによる福音書 2章18節~22節
ある時、イエスのところに人々がやって来てこう尋ねました。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
ここで断食について問われています。律法では贖罪日に断食することを定めています。贖罪日というのは、1年に1度、全イスラエルの罪を清め贖うための犠牲が捧げられる日です。その他にも哀悼のしるしとして、悔い改めのため、罪の告白と祈りのためなどの時に断食をしました。
(略)
それに対してイエスはこうお答えになりました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
(略)
そして、祝福を注がれ、喜びをもたらす花婿はイエス キリストのことです。
イエスが来られ、イエスが共におられるとき、わたしたちは日常が中断され、祝いの場へと招かれるのです。
例えば、礼拝がそれを表しています。日常が中断され、神が備え給う祝福の場へと招かれるのです。そこにはイエス キリストがおられます。キリストを通して神の言葉を親しく聴き、神がわたしたちを愛していてくださること、神がわたしたちの救いの神であることを喜ぶのです。
そして、礼拝でのキリストとの出会いが、教会においてだけでなく毎日の生活においてもキリストがわたしと共にいてくださり、御手をもって導いていてくださることを知るようになるのです。
礼拝への招きは、イエス キリストとの出会いへの招きであり、祝福への招きです。礼拝へは行かねばならないのではありません。行儀よく静かに座っていなければならないのではありません。眠気をこらえて説教を聴かなければならないのでもありません。
礼拝への招きは、神の祝福への招きです。
神の祝福により新しい生活、新しい人生が始まるのです。
神の愛によってわたしの命が造られました。神は独り子イエス キリストを遣わしてまでわたしを救ってくださいます。神はわたしと共に生きてくださり、わたしを祝福してくださいます。
神の招きは神を喜ぶことへの招きであり、わたしを喜ぶことへの招きです。
わたしたちはもっと喜んでいいのです。恐れなく喜んで大丈夫なのです。
しかし、イエスは花婿が奪い取られる時が来ると言われます。
(略)
だからイエスはこう言われました。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」
イエスによって全く新しいものが与えられました。
新しいものを古いもののように取り扱い、一緒にしようとすれば、破れは一層ひどくなってしまう。良さを受け取るどころか、かえってダメにしてしまう。
律法を守るようにイエスを努力目標にして自分で頑張るのではありません。イエスは律法の一つではありません。
律法そのものがイエスを指し示し、イエスが来られるのを待ち望んでいました。
そしてこうも言われました。「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
神がついに独り子を遣わされ、救いの約束を成就されたその全く新しい出来事に気づかなければなりません。自分の古い思い、肉の思いにイエス キリストを押し込めようとしてはなりません。イエスを自分の都合に合わせて利用するのではなく、イエスの新しさの中に自分が入っていくのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱにこのように記されています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)
キリストとの出会いの中にわたしたちの新しい命があります。
それは神が用意してくださった古びることのない新しさ、祝福に満ちた新しさです。
そこには悔い改めと感謝があります。尽きることのない喜びがあります。
神ご自身が用意してくださった全く新しい出来事へとわたしたちを招いておられるのです。
全文は、https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2023/01/30/123807
長老の祈り
天の神さま、独り子イエスさまを与えてくださり罪に恐れることなく喜んで歩めるようにして下さりありがとうございます。
神さまの招きにこたえつつ、日々を歩んで行くことができますように。
この祈りを主イエスキリストの御名によりましておささげいたします。
アーメン!
この説教の最後の方ももちろん福音が語られていて良いのだが、
「律法そのものが…、イエスが来られるのを待ち望んでいました」
この一言が秀逸だと思った。
けれど夫自身は、この言葉が秀逸だなどと思って語ってはいなかっただろう。
この言葉は、イエス自身の以下のような言葉を根拠としていると思われる。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(マタイによる福音書5:17,18)
この言葉から、讃美歌21、425番の2節の歌詞を思い浮かべた。
「大地震も、嵐も、稲光も、造られた方に助け求める」
この歌詞にはなんだか笑えたのだが、これはイザヤ書から採ったようだ。
物が変われば同じように飾っても雰囲気は変わる。