風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

お聴きしながら、礼拝中に号泣した説教

myrtus77.hatenablog.com『聴く』3、4月号は、他教派の引退教師によるお説教を掲載させて頂きました。

「キリストの前に近づいて」(マタイによる福音書15:21〜28)

(略)

口語訳では、「女は近寄り」と訳しています。引き返すどころか、イエスさまにもっと近づくのです。「主よ、どうかお助けください。」直訳すると、「わたしを助けてください」です。「娘を助けてください」というべきなのに、「わたしを助けてください」といっています。「助ける」という言葉は、「悲鳴を上げる」と「かけよる」という言葉が結びついてできている単語です。人の悲鳴を聞いてすぐに駆け寄ることです。わたしの悲鳴が聞こえますか。すぐ来てください、といったのです。女性の必死さが伝わります。執拗に食い下がります。

(略)

 わたしたちも主の前に立ち続けなければなりません。簡単に退いてはなりません。イエスさまを拝しつつ、主により近づきたいと思います。この女性は、娘のために立ち続けたのですが、結果的には異邦人に救いをもたらす先駆けとなりました。わたしたちは、今主に近づき、主の前に立っているでしょうか、教会のために、人々の救いのために、家族のために、国のために、平和のために、又一人一人に与えられた課題のために、立ち続けなければなりません。退いてはなりません。

 

このお説教をお聴きしながら礼拝中に号泣した。マスクの替えも持っていなかったので、止まらない涙と鼻水にほんとうに困った。

 

どうしてあれほど泣けたのか?考えていた。

 

「娘を助けてください」というべきなのに、「わたしを助けてください」といっています。

 

私も、娘のアトピー性皮膚炎を治すためにずっと苦しんできた。

「当事者」ということが言われる。病気の人はその人自身が一番苦しんでいるのだ、と。

しかし、苦しんでいる者を見ながらどうしてやることも出来ないまま傍にいることも、同じくらい苦しい。

私も、娘の状態が悪い時は、眠れないまま朝を迎えることが幾たびもあった。組織液が吹き出して、痩せていく時などは、明日の朝まで生きているだろうか?と考えながら、夜を過ごしていた。

 

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この女性は、確かに、「わたしを助けてください」と言ったのだ。

私の願いをキリストは聞き入れてくださって、それを異邦人の救いの先駆けとしてくださるのだ。

ヤコブも自分自身への祝福を神に願った。それを主は聞き入れられて、イスラエルへの祝福となさったのである。

 

私の訴えたその〈私〉の願いを、神様は隣人の救いのために用いて下さるのだ。

だから、「わたしたちも主の前に立ち続けなければなりません。簡単に退いてはなりません」という言葉が胸に響いてくる。

これは律法主義的な言葉ではない。主によって救われた者への招きの言葉なのだ。

 

わたしたちは、今主に近づき、主の前に立っているでしょうか、教会のために、人々の救いのために、家族のために、国のために、平和のために、又一人一人に与えられた課題のために、立ち続けなければなりません。退いてはなりません。

 

 

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神は命を創り、そしてその命を救うために罪を裁き滅ぼす方です。

その神がおられる、救いの御業をなしておられる、この神の許にこそ命と未来がある、これを証しするためにわたしたちは召されているのです。

神は、わたしを信じて生きて欲しい、わたしと共に生きて欲しい、あなたがそうすることはわたしの救いの御業にとって大切なんだと、語りかけておられるのです。