風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「地は混沌として、闇が深淵の面にあり」(創世記1:2)

創世記1章1−5節 「光あれ」礼拝説教 (抜粋)

1節の「初めに、神は天地を創造された」という宣言の後、2節以降に具体的な創造の御業が述べられています。まず、2節の言葉「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とありますが、これは神さまが最初に創造された天地の様子です。混沌という言葉は旧約聖書において詩編イザヤ書エレミヤ書で用いられています。特にエレミヤ書4章23節に「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし空には光がなかった」とあり、その次に「わたしは見た。見よ、山は揺れ動きすべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり町々はことごとく、主の御前に主の激しい怒りによって打ち倒されていた」という言葉が続いています。これはエレミヤの預言ですが、イザヤ書と同様にユダの民の罪に対する神さまの激しい怒りによる裁きが語られている箇所です。人々の罪に対する神さまの激しい怒りによる裁きの結果、混沌として、形がなく虚しい状態しか存在しなかったと言うことです。従いまして創世記1章2節は人間の罪に対する神の怒りによってもたらされた虚しい悲惨な世界と同様のものが、神さまによって最初に創造されたということであります。

しかし、なぜ人間の罪に対する神さまの怒りが、創造の最初に語られているのか、疑問に思います。それは、この創世記の1章がどの様な経緯で何時、何処で書かれたかという事と深く関わっています。創世記1章が描かれたのは、紀元前6世紀頃と言われています。それはバビロン捕囚期の時です。ここで少し、イスラエルの歴史の概要を振り返ります。(略)エレミヤもイザヤもバビロンによってエルサレム神殿は破壊され、領土はことごとく荒らされ、民はバビロニアへ連行され、国が混沌とした悲惨な状態に追い込まれることを預言しました。その原因は長年に亘って数々の主なる神さまに対する罪への怒りと裁きであるのだと言います。その罪というのはイスラエルの民による偶像礼拝、異教の神を拝むという背信行為です。エジプトで奴隷であった民を救い、約束の地である乳と蜜の流れる地であるカナンを与え、王を立て、国家を築くことを許し、常に導き祝福して下さっている神さまに背を向け、裏切り、異国の異教の神々やその神々の偶像を拝み、また人間の欲望や富や財産を満たすことを何よりも優先したのです。神の霊に従わず肉の思いに従ったのです。神さまはその様なイスラエルの民の罪を裁かれたのであります。そして、彼らは国を失い、約束の地は混沌となったのです。これが紀元前6世紀のバビロン捕囚期のイスラエルの民の現実でした。ここで、言えることとして、創世記1章の著者が描いているのは、この世界ができた時の事、自然科学における宇宙や地球の誕生が如何なる経緯であるか描こうとしているのではなく、今、目の前で起こっている現実を描いているのであり、それは国がことごとく破壊され滅ぼされ混沌とし、不気味な闇に覆われ、そこには神の霊、即ち暴風が吹き荒れているという、深い絶望を描いているのです。混沌や闇や深淵や暴風は神さまに敵対した罪によってもたらされたものです。

 

(略)

 

話を2節に戻しますと、バビロンによる滅亡と捕囚の現実を前にして、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」、即ち破壊と混沌、そして真っ暗な絶望があり、暴風が吹き荒れている世界であるのですが、それは神さまの意志によって創られたものであり、そこで人間として生きていくことが神さまの御心であるのだ、というのが1節と2節が語っていることであります。当然、神さまの創造はそれで終わる訳では有りません。3節以下に次々と創造の御業が展開されていきます。
「『光あれ。』こうして、光があった」と3節に記されています。混沌や闇や深淵や暴風の世界の中に、神さまは光を創られたのです。

 

(略)

 

以上述べてきましたことより、旧約聖書は神さまが混沌とした世界に秩序と美しさをもたらすために、イスラエル民族を通してなさった神さまの働きの物語であるということが分かります。そして旧約聖書には新しい指導者が来て新しい創造をなさって下さるという希望を語っています。

全文は→https://shinguchurch.blogspot.com/2022/05/7-115.html

 

 

上にリンクさせて頂いた説教を拝見して、子どもの頃のことを思い出した。

 

 

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カラマーゾフの兄弟』は心情に共鳴しながら一気に読んだが、描かれている世界は私の住む世界とかけ離れていた。
しかし『罪と罰』は全く共鳴できないにもかかわらず、子どもの頃に見ていた世界そのものだったのだ。

(略)

貧乏は不幸の大きな要因だろうが決定打ではないということだ。
人間そのものが悲しいのだ。そういう世界を見てきた、と思う。

 

デリダ 脱構築と正義』で、アブラハムは神の命令に応じるという自分の決定を、妻サラにも、僕エレアザールにも、イサク自身にも明かさない」と記され、「絶対的責任の、極限の証しの物語であるイサク奉献は、徹頭徹尾、父と息子、男性的形象(父なる神、アブラハム、イサク)の物語であって、サラをはじめとして女性についてはなに一つ語られない」と記され、「もしそこに一人の女性が介在し、重要な役割を果たすとしたら、この苛酷で厳格な責任の論理のなかにも、なんらかの変様がありうるのではないか? デリダはこのように問いかける」と語られていた。

 

「この人は、お酒ばかり飲んで、私に何も話してくれないで自分一人でなんでも決めてしまうんです」と、叔父は、叔母から父母に訴えられていた。

子どもの頃から、心が通じ合わない世界を周りに見てきた。

 

神を知らない世界は、今も旧約の混沌と闇の中に置かれている、と思う。

 

御言葉が語られなければ、神を知ることは出来ない。

 

 

 

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 わたしたちの命は、神の祝福によって造られ、キリストの救いの業によって神の国へと導かれるのです。

 わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。

 わたしたちは神のもとから来て、神のもとへ帰るのです。

 わたしたちは行く宛てのない人生を生きているのではなく、帰るべき家へと、わたしたちを愛し続けていてくださる方の元へと続く人生を生きているのです。

 

 

 

 

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神を求める思いというのは、「秩序」を求める思いに等しい。つまり私は「混沌」を恐れていたのだ。私の中で、「死」は「混沌」とイコールであったように思う。

 

 

 

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そしてこの神の創造の業は命の創造であり、生きる秩序の創造です。

(略)

神は命を創り、そしてその命を救うために罪を裁き滅ぼす方です。その神がおられる、救いの御業をなしておられる、この神の許にこそ命と未来がある、これを証しするためにわたしたちは召されているのです。

神は、わたしを信じて生きて欲しい、わたしと共に生きて欲しい、あなたがそうすることはわたしの救いの御業にとって大切なんだと、語りかけておられるのです。