第二に、女性の不在について。神による「試し」の物語、絶対的責任の、極限の証しの物語であるイサク奉献は、徹頭徹尾、父と息子、男性的形象(父なる神、アブラハム、イサク)の物語であって、サラをはじめとして女性についてはなに一つ語られない。それはなぜなのか? 二重の死の贈与であるこの犠牲的責任のシステムは、その最深の深みにおいて、女性の排除と犠牲のシステムではないのか? もしそこに一人の女性が介在し、重要な役割を果たすとしたら、この苛酷で厳格な責任の論理のなかにも、なんらかの変様がありうるのではないか? デリダはこのように問いかける。
(略)
こうしてデリダは、ユダヤ=キリスト教も含めて、西洋形而上学の「肉食ー男根ロゴス中心主義」を問題化する。(高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』p250、251)
彼は虐げられ、苦しめられたが口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように口を開かなかった。(イザヤ書53:7 聖書協会共同訳)
フランシスコ会訳、新改訳、聖書協会共同訳等では「雌羊」と訳されている。
新約においては、「この苛酷で厳格な責任」を女性が担うことになる。
イエスを身籠もる母マリアが、先ず、それである。
他にも、イエスの復活の最初の証人として女性達が選ばれるのである。
次に遠くの方から見ていた女性たちがいます。彼女たちは、イエスに従い仕えてきた者たちです。彼女たちは十字架の証人であり、埋葬の証人であり(15:47)、復活の証人(16:1~7)です。十二弟子は男性でした。しかし、信仰の最も重要な証言は、女性たちに託されました。
そしてやはりこの「雌羊」と訳された中に、キリストにおいて、旧約から新約への転換がなされたことが読み取れると思われる。
旧約は旧約だけで読もうとすると限界が立ちはだかる。旧約は新約によって照射されるのでなければ、読み取ることができない。そういったことを思わされる。
これも夫が言っていたことだ。
「新約から旧約を読むのでなければ、福音を読み取ることは出来ない」。
信仰もそんなものだろう。日常生活で起こってくる様々な出来事の中で、神を見ることもなければ、どこに行き着く(目的地)のかもほとんど分からない。正統的な構造主義的なキリスト教の中においてさえ、「信じる」という時には脱構築されていかざるをえないのである。 https://t.co/DSiyRGyl6A
— 猫祐物語 (@syodainekosuke) 2022年5月23日
この言葉は、私は統合失調的な気質において最も良く理解できるように思うのだ。椎名麟三が追究していた点でもある。自分という者を規定する何者かが失われた時に、立ち現れてくる(ここでは神だが)何者かによって新たに確実に規定される自分(主体)という風に。 https://t.co/EfNCvFAFX4
— 猫祐物語 (@syodainekosuke) 2022年5月23日