風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように・・」(イザヤ書53:7 聖書協会共同訳)

 第二に、女性の不在について。神による「試し」の物語、絶対的責任の、極限の証しの物語であるイサク奉献は、徹頭徹尾、父と息子、男性的形象(父なる神、アブラハム、イサク)の物語であって、サラをはじめとして女性についてはなに一つ語られない。それはなぜなのか? 二重の死の贈与であるこの犠牲的責任のシステムは、その最深の深みにおいて、女性の排除と犠牲のシステムではないのか? もしそこに一人の女性が介在し、重要な役割を果たすとしたら、この苛酷で厳格な責任の論理のなかにも、なんらかの変様がありうるのではないか? デリダはこのように問いかける。

 

(略)

 

 こうしてデリダは、ユダヤキリスト教も含めて、西洋形而上学の「肉食ー男根ロゴス中心主義」を問題化する。(高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』p250、251)

 

 

彼は虐げられ、苦しめられたが口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように 毛を刈る者の前で黙っている羊のように口を開かなかった。(イザヤ書53:7 聖書協会共同訳)

 

フランシスコ会訳、新改訳、聖書協会共同訳等では「雌羊」と訳されている。

 

新約においては、「この苛酷で厳格な責任」を女性が担うことになる。

エスを身籠もる母マリアが、先ず、それである。

他にも、イエスの復活の最初の証人として女性達が選ばれるのである。

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 次に遠くの方から見ていた女性たちがいます。彼女たちは、イエスに従い仕えてきた者たちです。彼女たちは十字架の証人であり、埋葬の証人であり(15:47)、復活の証人(16:1~7)です。十二弟子は男性でした。しかし、信仰の最も重要な証言は、女性たちに託されました。

 

そしてやはりこの「雌羊」と訳された中に、キリストにおいて、旧約から新約への転換がなされたことが読み取れると思われる。

 

旧約は旧約だけで読もうとすると限界が立ちはだかる。旧約は新約によって照射されるのでなければ、読み取ることができない。そういったことを思わされる。

これも夫が言っていたことだ。

「新約から旧約を読むのでなければ、福音を読み取ることは出来ない」。

 

 

 

午後。