風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

武田清子=著『背教者の系譜 -日本人とキリスト教-』(岩波新書)

武田清子=著『背教者の系譜 -日本人とキリスト教-』(岩波新書

この本も20代の頃没頭して読んだ中の一冊だ。三十数年前、本屋で背表紙のタイトルを見て手に取り、目次を確認して買った。昔は、こんな田舎の小さな本屋でも岩波の本を並べていたものだ。この本を買った本屋は、今はもうない。

若い頃の私は、「日本人とは何か」などと考えたことはなかった。
若い頃考えていたのは、先ず、「死とは何か」、否、そんな風に考えていたわけではない。若い頃というより、小学生の頃から私は、「人間はいつか死ぬんだ。死んだら、自分がなくなるんだ」と考えていたのである。「死んだら地獄に行くかもしれない」などと恐れたことは一度もない。ただひたすら「自分というものがなくなってしまうこと」を恐れていたのだった。
思春期以降の私の関心事は、「愛とは何か」であり、「神はいるのか」であった。神を求める思いというのは、「秩序」を求める思いに等しい。つまり私は「混沌」を恐れていたのだ。私の中で、「死」は「混沌」とイコールであったように思う。

この本を購入したのも、ひとえに「背教者」という言葉に惹きつけられたためであり、副題の「日本人」に関心があったからではない。けれど、この本を読んで私は日本というものが怖ろしく思えた。だから、この本は以後あまり開いていない。どういうところが怖ろしかったのか、少し引用してみよう。3章「木下順二のドラマにおける原罪意識」の中の秋元松代の土着的罪観との対比」から

 そういう意味で、秋元は人間の悪=罪をすべての人間の人間関係においてとらえており、その悪は木下のそれよりも、ある意味では、もっとどろどろした、恐ろしい、生きた人間同士のいためつけあいの、生き地獄のような凄惨現実においてとらえられている。
 それは、キリスト教でいう「罪」(自己中心、自己主張、自己絶対化)と決して無縁ではないが、それよりも、悪霊のとりこ、怨念、呪いといった性格が強い。それは、自ら選んだ悪というよりも、むしろ、「家」や「人間関係」がつくり出すところの、いためつけあいの状況の犠牲であり、不幸の他者の悪意によって故意におとしこまれた予期せぬ不幸、親の死、戦災、貧乏等、不慮の受身の不幸が人間の心をゆがめ、他人をもっと大きな不幸にさそいこんでゆく悪の再生産である。それは人間が自らかかわって作り出すというよりは運命的なものとして、人におおいかぶさってくる悲運が、自己の悲運にとどまらず、周囲のものをもひきずって底なしの淵へ落ちこんでゆくといった呪い、怨念の世界である。(中略)
・・。ここには私どもの眼を下へ向けさせる力、南北の『四谷怪談』の、木下の言葉を借りれば、「救いようのない運命の深みへ理由なくはまって行く快感のようなもの」にあまりにも酷似したものがあるように思えるのである。そして、悪の根源は、こちらにではなく、しばしば老婆によって象徴される「魔女」に、つまり、外なる呪術的存在にあるのである。この点、木下順二の作品において、老婆のイメージに残酷さが除外されており、残酷さは、「自己の外」(例えば、魔女に象徴して)にではなく、「自己の内」の問題としてとらえようとするのと対照的である。木下のドラマにおける眼を上へ向けさせ、超越者との緊張関係に立つ原罪意識、それを自らの実存の深みに見出す主体----といった思想とは、非常に対照的であり、対極的でさえもある。ここには日本のシャーマニズムの特徴としての・・シャーマンを中心に形成される呪術的、神秘主義的、密儀的性格、人神としての呪的カリスマの支配とそれへの人格委譲等、日本の民間信仰に昔より今日まで連綿として流れている宗教意識の特質が顕著に見られる。(『背教者の系譜』より)

若い頃読んだ時には、「人格委譲」という言葉に表されているような、自分自身が失われていくような感覚にひたすら恐怖を感じていたのだが、今回、三十数年ぶりに読み返してみて、この本のテーマが、このところ私自身がずっと考えていた事柄に関わっていたということに気付いたのだった。つまり、「罪を自己の内にとらえているのか、あるいは自己の外に罪をおいているのか」ということが言及されていたのだということに・・。『背教者の系譜』「まえがき」には次のように書かれている。

 「日本人とキリスト教」という問題を、私は、キリスト教の日本における土着化という課題として問おうとする関心を持つのであるが、それは、キリスト教が日本の精神的土壌、日本人の精神構造にどう根をおろすか、そのことによって、日本人の価値意識にどのような変化がおきるかということにかかわる関心である。しかし、キリスト教の日本における土着化という問題は、本来は、個人としての日本人が、イエス・キリストの福音に出会い、自己の罪と救いの問題をキリスト教に求め、福音を信ずることであって、「われ信ず」につきることである。この信仰の領域は批評や分析の対象となる問題ではないであろう。個人にとっての魂の救いにかかわる問題だからである。それにもかかわらず、・・。
(中略)
この「正統と異端のあいだ」という・・それは、いわゆる背教者ではない。それは、非キリスト教国の文化・思想の土壌に根をおろすにあたって、意図せずしていろいろのゆがみを内在させたキリスト教会の「正統」に躓き、キリスト者の群から自発的に離れながら、いいかえれば、キリスト教の表街道から脇道にそれて、日本の土着思想の森の中へひとりで歩み出しながら、しかも、単に土着思想に里帰りしてしまうのではなくて、キリスト教の福音から投げかけられた人間観、歴史観、社会観などにおける基本的な価値観を、キリスト教会の「正統」が設定するワクを自由に踏みこえて、非キリスト教文化のふところ深くに創造的に生きることができたように考えられる背教者である。こうした「一つの系譜」に属する背教者が、そのような思想的歩みを経過することを通して、日本におけるキリスト教に対しても、また、日本の伝統的思想に対しても、ユニークな、そして、独自に重要な、問題提起をしていると考えられる課題について考察してみたいというのが、この小著における私のねがいである。(『背教者の系譜』より)

つまり、この本には、「(正統的な教会から離れてはいるが)罪を自己の内部にとらえて生きた者達のこと」が記されていたのだということに気付いたのだった。


さて、この『背教者の系譜』を久しぶりに手に取って読み返そうとしていた時に、著者である武田清子さんのインタビュー記事が新聞に載ったのであった。

このインタビュー記事には最初から最後まで「凄い!」と思わされたのであるが、最後の「追究してきたテーマに、終わりはありません。最後の日まで考え続け、成長を続けたい」という言葉が凄い!と思う。そして、中国人女性から拒絶されたことを、「生涯の宿題となる問題を投げかけてくれた『贈り物』」として受け止めておられるところにも唸らされた。そして又、御夫君の死について「大きな悲しみ」であったけれど「50年以上、信頼し合い人生を歩んだ彼の精神が、今の私を支えてくれています。毎日、一緒に生きていると感じます」と語っておられるところにも深く感銘を受けたのだった。