風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

対談本二冊


● うるさい奴は消せ! 「へんてこ日記」より
昨日、フランスのテロを利用した日本の「共謀罪」を書いた。
ら、案の定自民党が「共謀罪」が必要という話が出てきた。
テロに便乗して「共謀罪」言い出す 自民党はまるで火事場泥棒(この記事にはリンク先からお入りください)
によれば、…(中略)
「うるさい奴は消せ!」は、もう始まってる。(抜粋引用)

● フランス空軍がシリア爆撃か? テロに対する報復かもしれないが、テロもまた空爆への報復かもしれない。

● 第927回 ミャンマーは、これからどうなっていくのか。
 ミャンマーと中国の国境付近でのトラブルは、この山岳地帯に住む少数民族ミャンマー軍との戦闘が原因で、少数民族は、人口の70%を占める仏教徒ビルマ人の支配を嫌い、分離独立を掲げている。かつてこの少数民族に権力を与えてミャンマーを支配する手先に使っていたのがイギリスで、イギリスからミャンマーが独立した後はビルマ人との間で立場が逆になり、互いの憎悪がつのっている。
 ミャンマーはスズ、天然ガス、ヒスイといった天然資源が豊富だが、ミャンマー鎖国状態だった時、中国だけがほぼ独占的に取引を行い、ミャンマーへの強い影響力を持ち続けてきた。しかし、民主化後は、様々な国が駆け引きを行う舞台になっている。
 豊富な資源をめぐる争いと、独立を求める少数民族の抵抗。そして暗躍する大国。ミャンマーも、シリアやイラクと非常に似た状況にある。
 …、時間をかけて、丁寧に、できるだけ欧米の力学を持ち込まずに、改革を続けてほしい・。
 劇的で熱狂的で革命的な変化は、必ずその反動がくることは、歴史が証明している。(抜粋引用)

夫が、佐藤優氏の対談本を二冊買ってきた。夫が買ってきた本は私が先に読むことになっていて部屋に取り込んでいるので、買ってきた本人は買ってきたことも忘れているようなのだが・・。

五木寛之との対談本『異端の人間学』で、佐藤優氏は以下のようなことを語っている。

佐藤 アメリカのキリスト教もそうですね。アメリカの大統領が聖書に手を置いて宣誓するときに「神(God)」という言葉を使うけれども、「キリスト」とは言わない。キリストと言うと、ユダヤ教徒イスラム教徒を排除することになってしまうからです。
 アメリカで強い影響力があるのはユニテリアンというグループですね。ユニテリアンの特徴は、キリストは偉大な教師であって、神の子ではないと。この考え方に立つと、ユダヤ教イスラム教も一神教はだいたい包摂できてしまう。宗教学者のロバート・ベラー(一九二七~二〇一三)は、こうした事情を分析して、アメリカというのは、キリスト教国じゃなくて、アメリカ独自の市民宗教があるんだと言っています。(『異端の人間学』(幻冬舎新書)より抜粋)

私はこちらを先ずちらちら読んでから、橋爪大三郎との対談本『あぶない一神教を読んだ。すると、佐藤氏がユダヤ教イスラム教だけではなく、アメリカ型のキリスト教であるユニテリアンという宗派にも「受肉」という考え方はありませんね。」と語ったところで、橋爪氏が「実は、私は、アメリカではユニテリアン教会に所属しているんですよ。」と語り始めた。

以下に抜粋引用。

橋爪 実は、私は、アメリカではユニテリアン教会に所属しているんですよ。
 アメリカで暮らしていて、ハーバード大学の正門の真ん前に、ユニテリアン教会を見つけた。(補足すると、日本にはいま、ユニテリアン教会はありません。)面白そうなので様子を見にいっているうちに、メンバーにしてもらいました。私は日本では、ルター派の教会に所属しているのですが、ユニテリアンはほかの教会と二重に所属していても、問題ありません。
 ユニテリアンでは、キリスト教の大枠を維持しながらも、キリスト教の本質だと考えられていた三位一体説や、イエスは神の子であるという部分(ドグマ)を排除している。

佐藤 …。ユニテリアンにとってのイエス・キリストは、中国の孔子の存在に近い気がします。
 三一論や神の子であるイエス・キリストという伝統的な考え方を排除していくと、ユダヤ教イスラム教に近くなってくるということでしょうか?

橋爪 似ていると思います。伝統的なドグマ(教義)を排除していけば、キリスト教ではなくなってしまう。
 けれども、ユニテリアン教会に通う人びとの考え方や行動は、従来のキリスト教徒とほとんど同じです。
 …。
 さて、なぜキリストを“神の子”と考えない、ユニテリアンという宗派が生まれたのか。
 十九世紀、キリスト教徒は、イエス・キリストの存在を立証できるか、あるいは奇蹟や啓示を証明できるか、という実証主義の波にもまれた。
 実証主義とはまず、理性を使うこと。そして、観察して証拠を挙げること。
 端的に言えば、自分が理解して納得するために、さまざまな出来事を科学的、歴史的に明らかにしようという運動です。
 十九世紀は、科学が楽天的に信じられていた時代でした。自然現象に加えて社会現象など、さまざまな対象に科学の方法は向けられていきました。宗教も例外ではなかった。…。聖書を人間がつくり出した文章と考えて、その成立の経緯や論理構造を科学的な方法で解明していった。

佐藤 当時の健全な一般市民が、共通して納得できるのは、科学、哲学、歴史学でしたからね。しかし科学や哲学、歴史学を通してイエス・キリストの存在を証明しようとしたができなかった。神の子の可能性もあるが、もしかしたらただの人間だったかもしれない、と。そしてイエス・キリストとはなんだったのか、という疑問だけが残ったわけです。

橋爪 その議論で、すべての人間が共通して納得できたのは、人間であるということです。だからユニテリアンも、イエス・キリストを人間だと考えた。
 もちろん神だと信じている人がユニテリアンのメンバーになってもいいけれど、ほかの人にその考えを強制しない、という約束がある。だからユニテリアン教会のメンバーには、キリスト教徒でない人もいる。

佐藤 イエス・キリストは、まことの神でまことの人ですから、まことの人と考えているのなら構わない。そして偉大な先生でも、ただの人でもいいが、ただしイエスは救い主である、という態度ですね。

橋爪 その通りなのですが、ユニテリアン教会では、ジーザスという名前はあまり耳にしません。ゴッドという言葉もあまり聞かない。Aさんがゴッドを信仰して、Bさんがブッダを、Cさんが人智を超えた超越的な何かを信じて、Dさんが唯物論者だとしても、互いが互いの信仰を尊重していればいいという考え方なのです。
 それがひとつの宗教なのか、と疑問に思う人もいるでしょう。
 実際、アメリカでは、ユニテリアンを、キリスト教ではないと考えるひとのほうが多い。

佐藤 (略)

橋爪 その昔、アメリカのハーバード大学の教職員にも学生にも、ユニテリアンが大勢いました。ハーバードは、ユニテリアンの塊だったと言ってもいいくらいです。

佐藤 ハーバード大学でユニテリアンがそんなに多いのは何か理由があるんですか?

橋爪 それは、ユニテリアン教会が自然科学を、人間と神が交流する上でもっとも重要な手段だと考え、研究を強力に後押ししたからではないでしょうか。大学にとってこれは、強力な追い風になる。
 同様にビジネスも強力にプッシュする。ビジネスは地上の乏しい資源を価値あるものとして生み出して、なるべく多くの人びとに分け与えるための活動だから、一生懸命やりなさい、と奨励するわけです。しかも二四時間三六五日、信仰の立場から励め、と強く言っている。

佐藤 ユニテリアンはビジネスや学問だけでなく、教派縦断的だからほかの宗教との相性もいい。アメリカの従軍牧師やCIAの職員にもユニテリアンが多いのは、ムスリムユダヤ教徒だけでなく、理神論者や無神論者とも軋轢を生まずにスムーズにアクセスできるからです。(『あぶない一神教』(小学館新書)より抜粋)
佐藤氏や橋爪氏の持っている情報や知識が絶対だとは全く思っていないが、それにしても「いや、いや、知らないことが世の中にはいっぱいあるなぁ」というのが私の感想だ。「同じキリスト教徒が・・」などと思っていたら大きな誤解をしていたということになりかねない、と思う。

引用が前後するが、もう一つ、佐藤氏はこんなことも語っておられた。

佐藤 そうです。キリスト教がイエス・キリストを必要とするのは、人間には原罪があると考えるからです。人間の力で原罪を取り除くことができないので、真の神で真の人であるイエス・キリストという媒介者が必要となるのです。
 一方のイスラム教には原罪という考え方がない。私はイスラムの原罪の概念がないことが、いまの混乱を招いている原因だと考えているのです。
 原罪がないから神が命じれば、聖戦の名のもとにあらゆるものを破壊しても構わないと考える。
 キリスト教の場合、人間には原罪という前提があるから世界に差別や抑圧、病気、苦しみがあることは自然です。しかも人間がそのような問題を主観的には善意で解決しようとしても、原罪があるためにねじ曲がった間違えたものになる可能性が常にある。だから、キリスト教徒は自らの行動を常に批判的に吟味します。(『あぶない一神教』より)

イスラム教に原罪という考え方がないかどうかは私には分からないが、キリスト教徒でも個々人が原罪についてしっかり捉えているとは限らないのではないかと思う。まして「キリスト教徒は自らの行動を常に批判的に吟味します」とは、とても言い切れないだろう、と思った。

この佐藤氏に先だって、橋爪氏は、以下のようなことも語っている。

橋爪 ムスリムは「クルアーン」をどこまでも正しいと考えて、書いてある通りに行動します。それは当然です。クルアーンは“唯一”の教えなのですから。
 そんなムスリムの姿を見たキリスト教世界の人びとは、ファンダメンタリスト原理主義者)のレッテルを貼りました。
 原理主義ファンダメンタリズム)とはそもそも、キリスト教の用語です。聖書のテキストを、どこまでも正しい神の言葉と読み、それを規準に考え行動する態度のことです。
 もともとキリスト教の聖書は、先ほども話題になったように、時代も状況も異なるなかで書かれたいくつもの文書から成立しています。ですから書いてあることが、互いに矛盾する箇所はいくらもある。それを整合的に理解するために、キリスト教会は、聖書の「読み方」を決めてきました。主流派のキリスト教徒は、自己流で勝手に聖書を読まないものなのです。それなのに、聖書のどのテキストも神の言葉だからと文字通りに受け取る、少数派の人びとを、原理主義と呼ぶのです。
 ムスリムにとって、クルアーンは唯一の聖典で、それを文字通り神の言葉と受け取らなければならない。キリスト教徒はそれを、原理主義ではないかと思った。その見方が、欧米のマスメディアで拡散していって、イスラムファンダメンタリズムだ、過激派だ、テロリストだ、という単純な決めつけが、一人歩きしてしまっている。(『あぶない一神教』より)

この本に語られている二つのあり方は私には全く理解することができない。つまりイスラム教のあり方とユニテリアンのあり方、を。これを突き詰めていけば、「同じキリスト教、同じ教派の信仰を持っている者同士においても理解しているとは言えない」といういうところに行き当たるのだと思う。私は、人間は理解し合うことなどできないのだと考えている人間なのだ。だからキリストが来られたのだ、と。ではキリストが来られたから理解し合うことができるようになったかと問われれば、未だに理解不能だと言わざるを得ない。正統的なキリスト教であれば、ここで、まだキリストが再臨されていないからだ、と答えるだろうと思う。けれど、実際のところ私たちは、理解し合えないという葛藤の中に立っている。そしてこれからも、当分の間、立ち続けていくのだろうと思われる。
一つだけはっきりしていることは、キリストを信じているからといって、私は、信じていない者を皆殺しにしようとは考えない、ということだ。そして、キリストを「人となって来てくださった神の子」として信じているということは私自身の生の根幹に関わることであるから、これを蔑ろにするわけにはいかない、ということなのである。ただし、起こってくる事柄の渦中に立った場合はどう変わるかは分からない。報復のために皆殺ししようとするかも知れない。けれど又、それも、その場合は私自身の感情がそうさせるということだと考える。キリストの故に、ではなく。

この佐藤優橋爪大三郎の対談本『あぶない一神教ではカール・バルトについても言及されているので、もう少し読み込まなくてはならない。よって、当分の間夫の元には戻らないと思われる。


さて、一方の『異端の人間学』では異論を唱えたくなる箇所が一つあった。ドストエフスキーについて語られているところである。
五木氏のドストエフスキーは日本ではほとんど文学としてしか語られないけれど、神学と民族主義を抜きにしてドストエフスキーを論じたら、もう話にならないでしょう。」云々から始まる対談部分には異論を唱えないわけにはいかない気がする。五木寛之氏は小説家だと思うが、文学を理解していないのではないかと思った次第。五木氏は続けて「日本だと、宮沢賢治から宗教色を脱色して国民的な純粋詩人にするように、明治以来、ドストエフスキーも脱色されていったという気がします」と語っている。
私はむしろ、「脱色」ではないが、ドストエフスキーを読むときは、カトリックへの敵対や民族主義的な熱情に表される思想的なものを削ぎ落として読むべきだと考える。身につけている全てを剥ぎ取ったところに現れてくるドストエフスキーをこそ読み取るべきなのである。身につけているものに惑わされている限り核心部分は見えて来ない(核心部分についてはすでに書いたからここでは繰り返さない)。核心から、逆に、民族主義的な熱情を照らし出すべきなのだ。それをしないから、どうでも良いようなことを散々語って、肝心なことについては何一つ言及しないで終わるということになる。だから私はドストエフスキー本を買って読む気にならないのだ。以上。

佐藤優/五木寛之『異端の人間学』(幻冬舎新書)2015年8月5日発行
佐藤優/橋爪大三郎『あぶない一神教』(小学館新書)2015年10月6日発行