風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ちっとも分かっていない、と思うこと

新しい牧師館の入口は教会の門のすぐ脇にある。歩道は会堂の門の前で切れていて、そこだけ段差がない。だから、そこから歩道に乗り上げて牧師館の脇に勝手に車を駐車する人がいる。前の牧師館はちょうどT字路の一隅にあって、入り口も会堂の入り口の門から少し離れていた。だから、牧師館の入口の手前で車を駐めることはあっても入口を遮る形で駐められることは滅多になかった。けれど今は、会堂の門の前の歩道が切れたところから歩道に乗り上げて、牧師館の入り口の前を素通りして車を駐めるようになった。車を駐められる歩道部分が長くなったから、空いていればどこにでも自由に駐められるといった意識になるのだろう。

ある朝、庭師の務めを果たすべく門のある前庭で庭を眺めていた。すると車が勢い込んで走ってきて歩道に乗り上げ、牧師館の門の前半分を過ぎたところで止まった。運転手が降りてきて大慌てで走っていった。車に何とかメディカルと書いていたので、こんな早くに看護学校にでも来たのだろうかと思いながら、帰って来たら注意しなくてはと思い、門を出て待っていた。果たしてすぐに大慌てで戻ってきた。そこで、「あの、すみません」と声をかけると、こちらが声をかけるなり、「すみません、すみません、すぐに出ますから、ちょっと忘れ物取りに来ただけですから」と、ちっとも人の話を聞こうとせずに大慌てで車に乗り込んで出て行ってしまった。忘れ物って、近所の住人か?今度顔を見たらこんこんと説教垂れてやらねば、と思う。

その数分前に、娘がそこから出て行ったところだったのだ。「ここに車を止めないで下さい」などという単純な話ではないのである。もし数分の差がなかったら、もしうちの娘が門を出たところに勢い込んで車を乗り上げて来ていたらあなたは交通事故の加害者になっていたのですよ、つまり犯罪者になっていたということなんですよ、という話なのである。そしてもし、娘に何かあれば私はあなたを生涯赦さない、ということなのだ。

それに、教会には日曜以外人が集まってこないと思われているようだが、毎週水曜日には昼と夜、祈り会に集まってくる。高齢者が多い上に、中には門の奥にある自転車置き場から自転車に乗ってそのまま門を出て行かれる方もいる。この辺りは結構無法地帯なのだ。どんなに相手の方が悪くても、車を運転している人間側が、場合によっては人殺しの犯罪者になってしまうのである。

どうして、「車を勝手に駐めたから、怒られるんだ」というような浅薄なところで思考が停止してしまうのか!いつもいつも大慌てで考える暇もなく、そうやって働いて、お金儲けをして死んでいくのか!哀れだ!

建物の構造というのは、外構も含めて、そしてさらには門を出た歩道に至るまで良く良く考えられなくてはならないと思う。


前にいた教会の会堂は賞を取って建築雑誌に掲載されたようで、時折建築関係の人が見学に見えたりもしたが、十字架が建物と繫がってはいるのだが前庭に突き出る形で立てられていて、建物と乖離して見えるためか、建物をどこかの宿舎か何かと間違えてくる人もいた。
牧師館はその会堂の二階部分にあり、牧師館の玄関は外階段が設けられ、会堂の入り口とは別に、二階についていた。問題はその牧師館の窓であった。台所のガス台の脇についていた窓は外向きに開けると、階段を昇ってくる人にぶつかるので内向きに開けるようについていた。だが、その窓を内向きに開けると、ちょうどガス台のまえに立ちはだかるのである。北欧製の重厚なペアガラスの窓で途中で止めることもできない。私たちが行った年は30年に一度という暑い夏で、しかもエアコンは付いていない。窓を開けずに調理などできはしなかった。しかし、窓を開けると料理ができない!

私は思う。建築家というのは、格好ばかり追いかけていては駄目だ、と。そしてどんなにでかい美術館や博物館や教会堂やお寺をつくるより、住み心地の良い小さな家を考えることのできる建築家の方がエライ!と。人が住み続けるための小さな家は、大きな建物を造るより、深く考えなくてはならないと思う。表面的な浅薄なところで思考停止していては、そういうものは造れないと思うからだ。