風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

カール・バルトと私の一致点と相違点について

すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。(ローマ人への手紙11:32)

この箇所は、初めて新約聖書を読んで、最も心捉えられた箇所である。
いったいこの言葉の何に心を捉えられたのか?今になって考えた。

この言葉によって、私は、神に出会ったのではないかと。もっと言うなら、この言葉によって、生きて働いておられる神にぶつかったのではないか、と。さらに言えば、キリストに出会って回心したパウロのこの言葉によって神に行き当たったのだ、と。

 

この数年、バルトの『ローマ書講解』を読もうとして、脳が拒否反応を起こすので読めないまま手元に置いていた。最近になって、11章32節のところだけ読んでみようと思って読んだ。

「というのは、神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのであるから」。これに対して、リーツマンは言う。「この慰めに満ちた、喜ばしい結果をもって、第九章に始まった研究が終わる」。われわれは、驚いて目を転じ、ここではむしろローマ書の全体(しかもローマ書だけではないのだ)の鍵が見いだされるはずの、恐ろしく不安にする公理とわれわれはかかわりを持っていることを確認する。(略)この箇所はすべてのものが測られようとする尺度であり、すべてのものの重さが計られようとする秤である。この箇所は、それなりの仕方で、すべての聴く者や読者自身に対して、二重予定の規準となっており、この箇所はその予定の究極的意味を明らかに示そうとしている。ここで問題となる神の「閉じ込める」行為は、含蓄のあるものとして取り上げられるべきである。神の「憐れみ」が含蓄のあるものとして、最初の「すべての人」も含蓄のあるものとして、またそのあとの「すべての人」も含蓄のあるものとして取り上げられなければならない。ーーあとのすべての人はカルヴァンによって激しく狂気する人たちと見なされる危険を冒しても、そうしなければならない。ここに、隠された、未知な、理解のむずかしい、どのようなものも不可能ではない神、このような方としてイエス・キリストにおいてわれわれの父である主なる神がいる。(小川圭治・岩波哲男=訳『カール・バルト ローマ書講解 下』より抜粋引用)

ここで言われている「二重予定」とは、「救われる者と滅びる者が予め神によって定められている」というカルヴァンによる教説である。

私は改革派教会で洗礼を受け、改革派教会がこちらには無いので、最初に足を踏み入れた今の教会に戻ってきた。洗礼を受けたと言っても、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んだわけでもなく、教理や教義が頭に入っていたわけでもないのだが、何となく、「二重予定説」には違和感を感じていたものだ。

これを読んで、バルトは、このローマ人への手紙11章32節から新しい予定説を導き出したのだと理解した。

福嶋揚氏は、バルトの予定説を以下のように説明している。

バルトはまたカルヴァンの予定説を検討します。バルトはカルヴァンとは違って、神がある人々を救いへと選びつつ他の人々を滅びへと棄却したとは考えません。むしろ選びと棄却がキリストという一点において同時に起きて成し遂げられたと考えるのです。(福嶋揚=著『カール・バルト 未来学としての神学』)

キリストは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたし、旧約においてもキリストが選ばれイザヤ書42章)、捨てられるイザヤ書53章)ことは預言されているから、バルトの言う「選びと棄却がキリストという一点において同時に起きて成し遂げられた」という解釈には納得できる。

 

しかし、『カール・バルト 未来学としての神学』を読んでいて、ちょっとこれは考えが異なるというところもある。

 もっともバルトはそれらの遺産を無条件に継承することはしません。宗教改革者自身が原理とした「聖書のみ」「キリストのみ」を貫徹する限りにおいて、彼らの教えを支持するのです。つまり宗教改革の精神によって宗教改革そのものを検証するのです。
 例えば古代のアウグスチヌスから宗教改革へと受け継がれた「原罪」の観念をバルトは否定します。聖書が描く神の自由にふさわしい人間の真の自由とは、善と悪のどちらをも選ぶことができるという意味での自由、悪を選び「罪を犯す自由」ではないとバルトは考えます。バルトによれば自由とは「ただ善へと向かう自由」です。このような自由と責任が人間に与えられていると考えるからこそ、「原罪」なるものが原初の人間アダムから後世の人間へと逃れられない運命のごとく遺伝するという思想をバルトは否定するのです。(福嶋揚=著『カール・バルト 未来学としての神学』)

清水書院の『カール=バルト』にしろこの本にしろ著者のバルト解釈を通ったものであるし、私自身は『教会教義学』も何も読んでいないからはっきり言い切ることは出来ないが、この考えには、「罪」を忘れ去らせる「魔力」が潜んでいるように思われる。

そしてバルトのように考えるなら、キリストによる罪からの贖いは必要ないということになる、と思える。

創造の時に神が与えられたのは「善と悪のどちらをも選ぶことができるという意味での自由」だったのだ。そうでなければ本当の自由とは言えないだろう。そして、アダムは罪に堕ちたのだ。アダムが罪に堕ちて、そこから死が全人類に入り込んできたのだ(ローマ人への手紙5章)

バルトの言うような「ただ善へと向かう自由」というのは、キリストに出会って、キリストによって罪から贖われたことを知った者のみが持ちうる自由なのだと私は考える。そのためにも「原罪」は外せないだろう。「原罪」を否定すれば、救われる意味がなくなるのだから。

 

じゃぁ、バルトはローマ書5章12節についてはどう言っているのか?と思って、『ローマ書講解』のその部分を読もうとした。

「古い」人間もまた、まさに人類であり、人間存在であり、人間世界である。そして個々の人間の偶然性を一方では凌駕しながら、他方ではそれを基礎づけるかれのこの普遍的な規定性においてこそ、かれは、かれが現にあるところの者、われわれが知っている者、すなわち神の怒りの下に立たされている人間である。現に存在しないところの、しかもわたしがそれであり、そしてわれわれが知らない新しい人間、すなわち、神の前に義である人間もまた同様である。(小川圭治・岩波哲男=訳『カール・バルト ローマ書講解 上』より)

この辺まで読んで、読む気が失せた。関係代名詞をそのまま訳しているから読む気がしなくなるのだ。おそらくこれ以上、私は、『ローマ書講解』は読まないな、と思った。