風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

夫の本 ー『デリダ 脱構築と正義』(高橋哲哉=著)

このところの夫は、哲学者の哲学や思想を解説した本をよく買っていた。

 

デリダ 脱構築と正義』(高橋哲哉=著)。この写真、デリダ自身かな?


これもその一つだ。新しい本だ。

捨てなくちゃと思いながら捨てられず、中を開いてみると、栞を挟んだページのタイトルが興味深い。

「第五章メシア的なものと責任の思考」「1アブラハムと責任のパラドクス」「神の記憶をもつ無神論者?」

夫は途中から、あるいは私のようにあとがきから読み始める人ではないから、ここまで読んでここに栞を挟んだのか、あるいは買った時から挟まれていた栞なのか分からないが、著者のまえがきを読んでみると、

「私を読んでごらん。きみにそれができるかな?」。

 

(略)

 

 テクストがある秘密をめぐって呈示してくる複数の読みの可能性。それらのあいだで選択するということが解釈するということだろう。解釈することなしに読むことはできない。つまり、選択することなしに読むことはできない。このこともまた、あらためて痛感させられたことである。

 デリダのテクストは、ほとんどすべて、デリダ自身が読むことから成立している。デリダは読むことの専門家であり、他者のテクストの呼びかけ ー 「私を読んでごらん」 ー に応えて解釈を提起し、それをとおして自身の思想を展開していくのが彼のスタイルである(書かれたテクストだけでなく、いわゆる歴史的現実も彼にとってはテクストの構造をもっており、「私を読んでごらん」という呼びかけに応えて解釈すること、つまり選択することなしにそれに接近することはできない)。(高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』)

 

これは、説教をする際の夫の姿勢に重なる内容だ、と思った。

夫は、解釈なしに説教することはあり得ないという考えだった。

聖書に書かれた内容をそのまま信じて語るというのではない、と言っていた。世界が七日で造られたというのをそのまま信じて語ってはいない、ということである。

しかしまた、キリストが十字架で死んで復活されたということは、そのまま信じて語っているのである。信じるということを選択して語っているということだ。

この本は捨てられないな、と思った。

 

 

ネットが繋がらなくなって、これは本の片付けをしなさいということだなと思って片付けていると、ティリッヒ著作集第十巻」が箱から私の足の上に落ちて開かれたページが目に入った。

「10 ルター主義と社会主義との境界に立って」小見出しがついている。

カールバルトもティリッヒナチス台頭の前後で社会主義活動に向かっていっていたと思うが、そのことに触れているようで、これも読まなきゃと思わされたのだった。

 

カール・バルト著作集も全巻揃っているようだが、中には箱と一体化して中身を取り出すのが容易でないものもある(笑)。おそらく神学校時代に買ったものなのだろう。

夫は、「僕はカール・バルトを信じているわけじゃない。キリストを信じているんだ」というようなことをよく言っていた。カルヴァンもルターもカールバルトに置き換えて言うことができるだろうと思う。神学者を信じているわけではない、有名な宗教改革者を信じているわけではない、キリストを信じているんだ、と。

 

こういう信仰はどこからきたものなのか?と思う。

神様から与えられたものなんだろうとは思うが・・?