風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』から、イザヤ書53章7節

彼は虐げられ、苦しめられたが口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように口を開かなかった。(イザヤ書53:7 聖書協会共同訳)

 

 デリダはまず、キルケゴールとともに、アブラハムの「秘密」に注目する。アブラハムは神の命令に応じるという自分の決定を、妻サラにも、僕エレアザールにも、イサク自身にも明かさない。全焼の捧げ物にする子羊はどこにいるのかとイサクに聞かれても、アブラハムは「きっと神が備えてくださる」としか答えない。真相はじつはアブラハム自身も知らないのであって、ことの核心には神の沈黙、神の秘密があるのだが、その不可解、不条理な神の命令を受け容れるという決定を彼はけっしてだれにも明かさないのだ。こうした「秘密」は絶対的責任の条件である。

 

   アブラハムは、決定の瞬間にはつねにたった一人で、自分自身の単独性に引きこもっていなければならないという責任を引き受ける。私の代わりに死ぬことがだれにもできないように、私の代わりに決定すること、決定と呼ばれているものをすることはだれにもできない。ところが、話すやいなや、言語の境地に入りこむやいなや、人は単独性を失う。したがって、決定する可能性あるいは権利を失う。こうしてあらゆる決定は、その根底において、孤独にして秘密の、かつ沈黙の決定でありつづけなければならないだろう。(『死を与える』)。

   [・・・・・]常識にとっても哲学的理性にとっても、最も広く受け容れられている明証事は、責任ということを、公表性、秘密でないこと、他者たちの前で説明[報告]したり、正当化したり、身ぶりや言葉を引き受けたりする可能性や、さらに必然性に結びつけるものである。だが、ここでは逆に、つぎのことも同じく必然的に明らかになる。(『死を与える』)。

   すなわち、私の諸行為の絶対的責任は、それが私のものであり、まったく単独的で、だれも私の代わりになしえないものとしてあるべきかぎり、単に秘密を含意するだけでなく、他者たちに話さず、説明[報告]しないこと、なんの責任も負わないこと、他者たちに対してあるいは他者たちの前で、私がなにも応えないことをも含意する、ということである。(『死を与える』)。

 

 倫理的責任、すなわち家族、友人、社会、民族、国民などヘーゲルのいわゆる人倫共同体や、究極的には人類全体に対する責任は、その決定の理由や行為の動機についての公的、一般的な説明を要求する。言葉による明確な説明可能性、アカウンタビリティが求められる。プラトン、カント、ヘーゲル、そして現代の啓蒙的理性においても、哲学、倫理、そして法=権利の審級では、いかなる秘密も絶対に正当化されえないという公理がある、とデリダはいう。ところが、公的説明をはじめるやいなや、それどころか言語に訴えるやいなや、私は自分の単独性を離れて概念の一般性のレベルに身を置くことになり、唯一絶対の他者への私だけの代替不可能な責任を放棄することになる。言語はその必然的な反復可能性によって私の単独性を剥奪し、私をいやおうなく代替の連鎖のなかに引きずりこむのだ。言葉は一般性のなかで表現するので「われわれを安心させる」とキルケゴールもいっている。その一般性のなかで私は、私自身に呼びかけた他者への絶対的責任を裏切らざるをえないのである。

 絶対的に忠実であるためには、絶対的な沈黙を守らなければならない。他者への絶対的な責任を果たすためには、他の他者たちには応えない、したがって無責任になるのでなければならない。(高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』p236~238)

 

 

エスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(マルコによる福音書15:37,38)

 

   矛盾とパラドクスが瞬間そのものにおいて耐え抜かれるべきである。(『死を与える』)

(略)

しかもデリダは、絶対的責任が成り立つためには、倫理的なものが単純に廃棄されるのであってはならず、それらが「瞬間そのものにおいて」同時に「承認」され、「確認」され、「再肯定」されていなければならない、と主張する。(高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』p239、240~241)

 

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(マタイによる福音書5:17 口語訳)

 

時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。(ルカによる福音書23:44~46 口語訳)

 

 

 

ヨシュア記の「ヨシュア」というのは、「イエス」と同じ「ヤーウェは救い」という意味なんだね。

それで、ヨシュア記というのは、ヨシュアをキリストとして神への絶対服従を表しているのかな?と思いました。「滅ぼし尽くせ」という命令にも絶対的に従うという・・。

十字架の上で完全な服従を捧げて下さったイエス様のお誕生を喜ぶクリスマスが近づいて来ました。

 

 

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