アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが…神ご自身が備え与えてくださったイエス キリストを指し示すものです。
イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命をささげきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。
礼拝で代読して頂いた夫の2017年の説教を読み返していて、これはどこかで聞いたような言い回しだと思った。「〜果てに」。
そして思い出した。
「このキリストの無力の果てに」、これは私が10年も前に子どもの本の紹介で書いた文章の一端である。
私の書いた文章が夫の頭の中に留まり、10年の時を経て説教の中で語られたのだ。
私もまたブログなどに文章を書くとき、30年聞き続けてきた夫の説教の言葉を我知らず発していることがある。
殊に、神のことを語る言葉は人と人の間で循環するのだと思わされる。
雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書55:10,11)
それにしても、私と夫の捉え方は真逆になっている。
「アブラハムが信じた果てに」、「イエス キリストもまた…神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに」ー 夫はどこまでも肯定的だ。
私は、「キリストの無力の果てに」なのである。
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夫は薬のせいで物忘れが酷くなっていた。今の教会に来てから、「教会員の話を聞いても覚えていられない。牧会が出来なくなりそうだ」と言っていた。それで私は、「あなたが牧会出来なくなったら、私が代わりにしてあげるよ」と言ったのだった。
しかし、教会員に何か問題が起こっても、実際的に関わって解決できることなど何一つないのである。私には無力感だけが常に付き纏う。
だから、私にはやはり「アブラハムが信じた果てに」とは語れず、「キリストの無力」が、かけがえのないものとなる。
無力感に苛まれる時、自分の力の限界を思い知らされる時、いつもキリストの十字架の下に帰って来る。
そうして、そこで、うな垂れている。
すると、キリストは私達のこの限界を味わい尽くすために来て下さったのだ、ということに思い至る。
全能の神でありながら、肉体という限界を取って来られたキリスト。罪の中で限界を抱えて苦しむ私達のために、黙って十字架にかかられたキリスト。
このキリストの無力の果てに神がキリストに備えられたものの上に、キリストが私達のために備えて下さったものの上に、希望をおいて生きていきたいと思うのです。