風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

殺してはならない!

旧約聖書を開くと、神の命令で殺すという記述がいたるところに記されている。

モーセも、継承者ヨシュアも、出エジプトの後、約束の地へと至る過程で殺戮を繰り返している。(あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。申命記7:16)

又、イスラエルの最初の王として立てられたサウルは、「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」という神の命令に従わず、「アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」として、王位から退けられる。

サムエルは言った。「・・。主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか」サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです」サムエルは言った。「主が喜ばれるのは 焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか」(サムエル記上15:18〜22)

聖書を読んでいると分からないと思うことが多く出てくる。「神の命令による殺戮」というのも、どう解釈して良いか分からない事柄の一つである。それがすっかり解決されたわけではないけれど、私の中での一つの結論をここにまとめてみたいと思う。

アダムが神から命じられたことに背いて以来、この世界には罪と死が入ってきた。それ以来、神によって選ばれた者の生きる道は、神に聞き従って罪と戦って生きることとなった。旧約には、罪と悪を滅ぼし尽くす神に従って生きようとしながら生ききることのできない人間の姿が描かれていると思う。

しかし、その旧約の世界はキリストの出現によって新約へと変わる。キリストは神に完全に聞き従って殺される側に就かれたのだ。このキリストの十字架の上には決定的な転換点が置かれている。

だから、キリスト者はどんなときにも殺してはならない!のだ、と思う。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイによる福音書5:43〜44)