風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

モーセ(聖書の人物)

聖書には様々な人物が出てくるが、モーセほど数奇な人生を生きた人はいないのではないかと思う。
モーセが生まれる頃、エジプトの王ファラオはイスラエル人が増えることに脅威を感じ、「男の子が生まれた場合はナイル川にほうり込め」という命令をくだす。生まれたモーセは防水された籠に入れられナイル川に流される。その籠をファラオの王女が拾い上げ、実の母が乳母となり、エジプトの王女の子として育てられる。

母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。・・。モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。(出エジプト記2:9〜11)
モーセが成人となった頃、重労働に服しているイスラエル人がエジプト人から殴られているのを見て、殴っていたエジプト人を殺して砂に埋める。そのことをイスラエル人から咎められ、知られたことを恐れて王宮から逃亡する。逃亡したミディアンの地で家庭を築き、長い年月が過ぎた時、神はイスラエルの民をエジプトから導き出すためにモーセを用いようとなさるのだ。


神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。出エジプト記3:12)

若い頃はこの世の理不尽に耐えられず、自分の力で何とかしようと思う。若さ故に性急に事を起こしてしまう。理想に燃える純粋な若者ほど不条理の中で生きていくことは難しいのではないだろうか。けれど、すぐには変革されないこの世の中に耐えて生きなければならないのだと思う。どうすれば耐えられるのだろうか。心のどこかで人生の随伴者を感知していることではないか。人の知恵をはるかに超えて、この世界の全てを治めているものの存在を、畏れをもって知ることではないか、と思う。

北海道にいる時は、ずっと小学校で読み聞かせをしてきた。家庭に問題があって転校してきたと思ったら、短い期間で、また転校していく子ども達もいた。キリスト教の話やそれに関連した本を読むことはなかったが、読み聞かせを通して子ども達が「どんな時にも自分に伴ってくれる人がきっといる」と心の片隅に感じ取ってくれることを、いつも願っていた。

 『ナルニア国ものがたり』第3巻
子どもたち向こうで会おう向こうでもわたしに会えるわたしはいる

http://plaza.rakuten.co.jp/narrative1gatari/diary/201103070000/


私はこの文章を、オウム真理教に取り込まれて大変な事件を起こしてしまったかつての若者達のことを思いながら書いた。彼らが人生の本当の随伴者を感知していたなら、と思わずにはおれない。