風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

日本人であるということ - 芙美さんの俳句から


『俳句にとって「読み」とは何か』 萩山栄一

手袋が轢かれてをりぬ細雪 「fumi’s俳句日記」より

私は自分が日本人であるということなど普段からほとんど考えたことがないのだが、芙美さんの上の句を拝見した時、自分が日本人であるということがイメージの共有に大きく影響していると思えたのだった。

この句の「細雪」から日本人である私が連想したのは、もちろん谷崎潤一郎である。私は谷崎潤一郎を読んだことはない。『細雪』も読んだことがなかったので、今回『細雪』をググってみて初めて内容を知ったぐらいのものなのだが、芙美さんのこの句を拝見した時に頭の中に浮かんだのは「谷崎潤一郎」からイメージする世界だった。
句の最後に「細雪」という言葉をおいただけで、轢かれた手袋の無惨さが際立ってくるように思える。「この手袋は女性のものに違いない」などとイメージがみるみる膨らんでくる。ただ「手袋が轢かれてをりぬ」と描写しただけのものなのに、である。
しかし表現が簡潔でありながら大きくイメージを膨らませるところに、この句の持っている力の大きさが感じられる。否、むしろ表現が簡潔であるからこそ、イメージが限定されず無限に膨らむのかもしれない。

いずれにしても、俳句というものは、作り手と読み手の側のイメージの共有を土台として成り立っている文芸であったのだと強く思わされたのだった。共通のイメージが土台にあれば、多くの言葉を必要としない。季語というのはまさにそういうものではないだろうか。けれど、それは共有するものが多ければ、日本人であるということに限らず、季語に依存せず、簡素な表現でイメージを膨らませることが可能なのではないかとも思う。どこに共有する土台を据えるかにもよるかもしれない。このところ俳句が世界へ向かっていっているのは、イメージの共有が広がりつつあるという証しかもしれない。日本人から人間へと。


芙美さんの俳句からもう一つ思い浮かべたものがある。葛原妙子の短歌だ。

胸の上に黒き轍のゆきかへりそこに絶え間なし雪のはなびら 葛原妙子 『飛行』