風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子12

十字架を組みたる材はなにならむ荒れたる丘の樫のたぐひか『原牛』
葛原妙子は、この短歌の「荒れたる丘」をどことして頭に浮かべていたのだろうか。イエスが処刑されたというゴルゴタの丘であろうか。ゴルゴタの丘エルサレムの城壁の外にあったと言われているようだが、はっきりした場所は不明のようだ。けれど、ちょっと聖書を知っている人なら誰でも思い浮かべるような「ゴルゴタの丘」から十字架を発想したというのでは、葛原妙子が作った短歌としては面白味に欠けるように思う。短歌的にも、「十字架を組んだ木が十字架が立っていた丘に植わっていた」というのでは、イメージの広がりを感じさせないのではないだろうか。

俳句の構成に二句一章というのがある。二つの概念を一つの句の中に盛り込んで作る技法と言えば良いだろうか。その時の二つは、全く対照的なものを合わせるのが良いと聞く。大きな景観には小さな生き物を、抽象的な概念には具体的な事物をというように。短歌を作る場合はどうだろう。歌人も具体性に目を向けるのではないだろうか。具象だけではつまらない作品になるだろう。しかし又、抽象に過ぎれば理解されず面白味もない。抽象的な中に具象を捉えようとする視点は妙子も常に持っていたのではないだろうか。

そんなふうに考えていると、妙子は「罪」というものを自分に引きつけて捉えていたのではないかと思えてきた。十字架とは罪の象徴ではないか。「罪」を自分に引きつけて捉えるとき、十字架は材質を伴った具体物となって迫ってくるのではないか、と。この時はまだ信仰を告白してはいないが、妙子が自らの「罪」というものに拘って歌の中に詠み込んでいるのは明らかだ。

同じ歌集『原牛』の中に、こんな歌がある。

「ラビ安かれ」裏切のきはに囁きしかのユダのこゑ甘くきこゆる『原牛』
ここにも、イエスを十字架にかける罪ある者として自らを捉える視点が働いている。

お前たちは葉のしおれた樫の木のように 水の涸れた園のようになる。(イザヤ書1:30)
彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。(イザヤ書61:3)