風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子14

悲傷のはじまりとせむ若き母みどりごに乳をふふますること
十字架を組みたる材はなにならむ荒れたる丘の樫のたぐひか
風媒のたまものとしてマリヤは蛹のごとき嬰児を抱(いだ)きぬ

「葛原妙子5」で取り上げたこの三首は、妙子の第五歌集である『原牛』の中にある。この三首のすぐ前に、次のような短歌が載っている。

小羊の皮を愛してひとり棲む兄よまぶしき海の邊あらん

又、すぐ後には次のような短歌も載っている。

南風のしづまる街にかたへなるたしかめがたくうすらなる人

『原牛』のあとがきには、「十日ばかりの旅を二度することが出来た」と記されていて、「原牛は、日本海を見て得た名である。原牛は砂丘砂丘のあいだに定まり力充ちた海であった」と書かれている。砂丘への旅から死海のほとりへと想念を広げたのであろうか、『原牛』の中にはキリストが生きた地を詠み込んだ歌がいくつか見受けられる。

ヘロデの玉座冷えて遺らん 砂荒れてひろき死海のほとり
はらわたのごときヨルダン河は繫ぐ黒き死海ガリラヤの湖を
出口なき死海の水は輝きて蒸發のくるしみを宿命とせり

そんなところから私は、「南風の」の歌に詠まれている傍らにいる「たしかめがたくうすらなる人」はキリストであろうと思う。エマオの途上で二人の弟子の前に現れ、その旅路に同行した復活のキリストであろうと。

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(ルカによる福音書24:13~16)

エマオがどこなのかは、はっきりとは分かっていないようだ。けれど『新共同訳聖書聖書辞典』(新教出版社によると、いずれの説もエルサレムから西北の地をあげて「ここがエマオではなかったか」と言っているようだ。
キリストが処刑されたエルサレムから二人の弟子達がエマオへと向かっていた。そのエマオでは、エルサレムでのあの出来事もあまり広まってはいないようだ。妙子の歌からは、キリストの処刑を伝える南風も静まってひっそりとしている街が浮かび上がってくる。

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカによる福音書24:30~31)

やはりこの歌は、エマオ途上の二人の弟子が見たキリストを詠っているように私には思われる。けれど、それだけだろうか。そんなはずはないだろう。なぜなら、『原牛』のあとがきに次のようにあるからだ。

「短歌に、今日の中に含まれる私を、どう歌いこめるかということについて僅かながら苦しんできた・・」
歌の中には妙子自身が詠われているはずなのだ。それ故、この時期、妙子自身の目にキリストが「たしかめがたくうすらなる人」であったということが詠われているのだ、と私は思う。


歌集『をがたま』補遺の中には次のような歌がある。

出現、とは日輪雲を破るごと神の首(かうべ)のあらはるるなり『をがたま』補遺
歌集『をがたま』は、最晩年の短歌をまとめたもので、葛原妙子が亡くなった後に出されたものである。さらに『をがたま』補遺には、第八歌集『鷹の井戸』から洩れたであろうもの、又、『をがたま』に加えるべきであったもので後に見出されたものなどが収められているようだ。
『原牛』の中では「うすらなる人」と詠われていた「神」が、ここでは「現れるというのは(他の何が現れるのでもなく)、神の首が現れることである」とまで詠われるようになる。


又、『原牛』の中には戦争の体験を思わせる歌もある。

むしばみの深かりとせば いくさより過ぎし十年のいま
かの黒き翼掩ひしひろしまに觸れ得ずひろしまを犠(にへ)として生きしなれば
ひと夜われむかひてゐたりゴヤ描く「巨人」なる繪のおそろしけれど
人のみか牛馬さへや周章の刻ありてそらに巨人立ちゐき

大戦の最中、又それを越えた後の長い年月は、葛原妙子にとって、「たしかめがたくうすらなる」「神(キリスト)」を確かめようとする時だったのではないだろうか。


ところで、この『原牛』の中にはこんな短歌も入っている。

厚き聖書と鍵を具ふる卓の上ホテルは一人の旅人のため

二度の旅のどこかのホテルに具えられていた聖書であろう。旅人である妙子のために具えられた聖書。聖書はまさしく人生の旅を導く書物であった。