風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子26

「日向を若い父親に抱かれて子供がやつてくる。日向が眩しいだけではなく、見知らぬ人の顔をみると大きに照れてふにやつとわらひ、目を瞑つてしまふ。「弱々しいやつだ」と口に出して呟けるのは私が息子を通じてこの男の子に濃い血液をわけ與へてゐるからである。だがこの子供は確實に二十一世紀を生きる筈である。」(『葡萄木立』後記より)
「葛原妙子21」で取りあげた『葡萄木立』のこの文章はとても重要であると思う。加えて第五歌集『原牛』が「罪」から「救い」への転換となった歌集であるなら、「葛原妙子13」で推論したように、妙子はこの時期から十字架上に自分の罪の赦しを見ていたのではないかと、またしても思わされる。


さて、今回は第六歌集『葡萄木立』からの短歌について考えてみたいと思う。

父が與ふる匙をとり落すをさなごよ汝は摑まむとこころみながら『葡萄木立』
ゆふぐれに何を泣くこどもよ 汝が淚汝を抱ける父に溢れぬ
をさなごの指を洩れゐるものあまた花絡(はなづな)のごときもの 星のごときもの

この三首は、上の『葡萄木立』の後記に記されている妙子の男孫とその父親とのやりとりの様子を詠んだものであろうか。それは定かではない。しかし、そこには自己が投影されていると思う。
子どもが1歳前後かあるいは1歳になるまでの頃に、人に物を拾わせてはポイッと投げて又拾わせるということを繰り返して楽しむ時期がある。一首目の歌はそういった状況とは少し違うのかも知れないが、いずれにしても父と子のやりとりを目にして詠んだものに違いない。けれど、この歌の汝、つまり幼子には妙子自身が投影されている。そして、父とはキリスト教でいうところの父なる神であろうと。さらに、「父が与える匙」は「キリスト教の信仰」を比喩していると思われる。そう捉えれば、少し間をおいて置かれている三首目に繋がっていくように思う。
三首目はなんと美しい歌だろうか。花絡とは、花で編んだもののことを言うのだろう。幼い頃、花を編んで首飾りを作ったりしたことがあるだろうか。けれど、この花絡、「はなづな」というふりがなのふられたこの言葉は首飾りのようではなく、長く繋がったロープのようなイメージを私に与える。どこへ繋がっているのだろうか?天へか?それを手繰っていけば天へとたどりつくのだろうか?又、星はどこから降ってきたのだろうか?天からか?幼子は、天へと繋がるつなをしっかりと摑みきれないで取りこぼし、天からのものを受けとめられないで取りこぼすというのだ。幼子の涙と一緒にキラキラと煌めきながら指間からこぼれていく星が見えるようだ。
この三首目の後に続く歌が、また不思議な歌達なのだが、何か静けさと美しさを内包しているように思う。

風ふけばいつせいに躍る光球(ひかりだま)葉洩れの太陽光(たいようくわう)さわぎたり『葡萄木立』
彈む球ききわけをれば影の球日向の球の音混りたり
かつてわれ聽かざりし球、無音の球 わが居廻りに彈みてゐるは
球の音織るごときをさなごとわれをりをさなごを生みし父母をり

この一連は、木洩れ日の射す縁先での情景を詠ったものであろうか。
二首目から、私は、テニスボールの音を連想する。陽ざしが傾いてテニスコートの片面は日蔭、片面は日向。午後の時間の流れる中でテニスボールが行き交う音を聞いていると、まどろみの中に誘われそうな静けさに包まれる。
「球の音織るごときをさなごとわれをり」の四首目では、幼子と吾が球の音を織る者のように見立てられている。歌の中に詠われている対象は自己の内と外を自在に行き来しているようだ。日向の球を打っているのは幼子だろうか。影の球を打つのは妙子だろう。そこには幼子を生んだ父母もいる。この歌は、何とも形容しがたい穏やかな静けさに包まれている。妙子がこのような穏やかな静けさに包まれたことは、かつてなかったのではないだろうか。三首目はそう詠っている。「かつて聴かなかった無音の球が私の廻りに弾んでいる」、と。
そうして、この後に続くのが次の一首である。

青き木に青き木の花 纖(こま)かき花 みえがたき花咲けるゆふぐれ『葡萄木立』
葡萄も蕊は白いが、花は青(緑)ではないだろうか。そして花には見えがたい細かな花が無数に咲く。葡萄の木と言えば、キリストである。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。(ヨハネによる福音書15:1)

この歌から私は、「葛原妙子23」で取り上げた第五歌集『原牛』の次の歌を思い起こす。

キリストは青の夜の人 種を遺さざる青の變化(へんげ)者『原牛』
『原牛』の中では、キリストは「種を遺さざる者」と詠われている。けれど『葡萄木立』の中では、細かな花を咲かせた青い木として詠われている。
キリスト教徒というのは、キリストを長子とした兄弟姉妹の関係の中にある。けれどそれは血縁関係ではない。キリストは子孫を遺さないまま十字架上で死ぬが、キリスト教徒はそこから生まれてくるのである。

人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12:23~24)
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネによる福音書15:5)

「おさなごと、われと、おさなごを生んだ父母がいる」、そのように詠った歌の後に「青き木に」の歌が続いているというのは真に意味深い。まるで妙子も細かな花の一つとなって青い木の上で憩っているようだ。

見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう。(詩篇133:1)

逭=青