風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子31

青き木に青き木の花 纖(こま)かき花 みえがたき花咲けるゆふぐれ『葡萄木立』私は「葛原妙子26」でこの歌を引用して、「妙子も細かな花の一つとなって青い木の上で憩っているようだ」と書いた。人の目には見え難かったかも知れないが、葛原妙子は確かにこの時点で実を結ぶはずの花を咲かせていたのだ、と私は思っている。しかし、私達の信仰もそうだけれど、花を咲かせても実を結ぶまでには嵐に遭うこともあれば、日照りによって枯れてしまうこともある。いったん花を咲かせた後にも試練は襲ってくるのである。けれどそれは、本物の信仰へと実っていくための神からの訓練の時であるかも知れない。


さて、第七歌集『朱靈』になると、「紙」について詠った短歌が目につくように思われる。先ず最初に出会うのが次の歌である。

(と)のすきに眸ひそかにとどまれるをのこ兒紙のこどもとも見ゆ『朱靈』
この歌の次の一首から、次に「紙」が出てくるまでの歌を引用してみよう。

ちらちらと行手に走りいでつつをさなごはわが空間を盗む
わがかたへか纖きこどものきてすわり日の照る庭に見入りけるかも
肉親の汝(な)が目間近かに瞬くをあな美しき旅情をかんず
この子供に繪を描くを禁ぜよ大き紙にただふかしぎの星を描くゆゑ

ここで詠われている紙の子どもとも見える肉親の男の子は、第六歌集『葡萄木立』の「後記」に記されていた妙子のご長男のご子息かどうかは定かではない。しかしこの歌でも私は、幼子イエス・キリストを思い浮かべる。
この男の子は紙で出来た子どものように見えると詠われているのだ。「紙」とは、弱きものの象徴だ。簡単に人の手で破ることが出来、くしゃくしゃに丸めて屑籠に捨て去ることすら出来るのだ。正に、『葡萄木立』の「後記」で妙子が「弱々しいやつだ」と口に出して呟いた男の子のようである。
短歌というのは比喩の芸術ではないだろうか。殊に現代短歌では・・。この「紙」が比喩であるなら、この中には「神」が隠れている。神の子キリストは、まさしく紙のように捨てられ、引き千切られるためにこの世に来た。

四首目「肉親の」の歌は、この世に来られたイエスの目の中に美しい旅情を感じると詠っているのである。

五首目を見ると、私は『薔薇窓』の中の「ゆだやびと花の模様をもたざりきその裔にして生(あ)れしきりすと」を思い浮かべる。「葛原妙子23」で私は「ユダヤ人の紋章はダビデの星であるが「星」については言及しないで、わざわざ「花の模様をもたざりき」と言っている」と書いたのだが、ここでは「ユダヤ人の末裔(つまり救い主イエスキリスト)」という言葉は隠しておいて、「星」によってユダヤ人の末裔に生まれた子供であるイエスを暗示しようとしているようだ。
もちろん、歌が発想された実際の状況というものがあるだろう。実際に子供が紙に不可思議な絵を描いていたのだ。けれど、人が生まれて絵を描く過程にも発達による段階というものがある。生まれた子どもが、おすわりが出来はじめるようになって最初に描き出すのは、上下に腕を振り下ろして出来る点々である。それから左右に腕を動かすなぐりがきの絵になり、次第に手首が動くようになって、ぐるぐる丸の絵になる。そのぐるぐる丸が閉じた一つの丸になると、子どもの中に見立てる行為が生まれてくる。同じ丸でも、この丸は「おかあさん」、この丸は「誰々ちゃん」というように。次の段階では、丸に手足がついた頭足人間を描き始める。つまり不可思議な絵を描く時期に四角や三角や、まして鋭角の多い星を描くというのはちょっと考えにくいのである。だからこの歌は、不可思議な絵を子どもが描いている状況から発想を得て、ここに「星」をわざわざ当て嵌めたのだということが出来る。
「ただふかしぎの丸を描くゆゑ」では、葛原妙子の場合、作る意味の全くない歌になってしまう。
あるいは、子供が紙に丸を描いて「星」に見立てたということはあるかも知れないが・・。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(ヨハネによる福音書1:1、2、4、6~9、11)

わたし、イエスは・・。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(ヨハネの黙示録22:16)

そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエス安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。(ヨハネによる福音書5:16~18)

ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。(ヨハネによる福音書5:35~36)

わたしと父とは一つである」。そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。(ヨハネによる福音書10:30~34)

この子供に繪を描くを禁ぜよ大き紙にただふかしぎの星を描くゆゑ『朱靈』


さて、これらの歌の次に「紙」について詠った歌は、間をおきながら次のように続く。

美しき紙靈は立つひと日わが成したる反古を眺めてあれば『朱靈』
白い紙こまかにこまかに刻みゐるこどもはうしろに立つ者をしらず
眩暈のしづけきときにあらはれて遠路をきたる紙の商人
うすひかる聖水なればふれむかなわがかりそめの紙の指もて

一首目は、短歌を作って紙に書いては丸めて捨てるということを繰り返しながら出来てきた歌であろうと思われる。
二首目の「うしろに立つ者をしらず」という下句は、「紙」をこまかに刻む行為への報いの怖ろしさを印象づけているように思う。
三首目の紙の商人とは、紙を売る者である。この「紙」という漢字を「神」に変えるとどうであろうか。第七歌集『朱靈』の中には、銀貨30枚でキリストを売ったユダを詠った歌も見受けられる。「桃畑愛せしユダよみづからの桃の畑にくびれしや否や」
又、「売る」ということで言えば、『葡萄木立』の中にも「わが手に置かれし銅貨 葡萄賣る人握りゐし銅貨つめたき」という歌もある。(葡萄売りから葡萄を買ってお釣りを貰った体験から発想したのだろうか。)
四首目は、『朱靈』の中の「地上・天空」の中にあって、西欧旅行をした中で詠われたもののようだ。前後の歌から、「ヴェネツィア」の寺院を訪れての歌だと推測される。「わがかりそめの紙の指」というのが意味深長である。


又、「紙」について詠った歌は『朱靈』の中だけに止まらない。

紙を裂くわが手をみよ 紙を裂く山裂く音、といひにける人『鷹の井戸』
紙屑をひろへるわれはしろたへの紙屑とともにかろくなりたり
紙屑はひとつならずも ぽいと捨てふたたびみたびわが捨てしかば『をがたま』

第八歌集『鷹の井戸』の「紙屑を拾った私は紙屑と共に軽くなった」というのが面白い。心が軽くなったのだろうか。「しろたへの」という言葉で紙屑が光り輝いているかのように見える。その紙屑を拾って心が軽くなった妙子自身も光り輝いてふわふわ浮遊しているかのようだ。
けれど又、第九歌集『をがたま』では、どうだ。「私は、紙屑は一つならず二度も三度も捨てましたので」と詠うのだ。『をがたま』の中にもユダを詠った歌が入っている。「みづからを括りしイスカリオテのユダ家も畑もありし青年」


では最後に、紙ではないが、屑籠を詠った歌を引用しよう。

おほきなる屑籠ありてやはらかきみどり兒を容るるに足らむ『鷹の井戸』
この歌については、上記の「紙屑をひろへるわれは」の歌に続いてエッセイが書かれてある。

 だが私の椅子の足もとにはまだまだ拾い切れない紙屑がある。そこで或る日奮発して巨大な籐の紙屑籠を手に入れた。
 口径三十三センチ、高さ三十四センチ、底は安定し、あたかも古代縄文の怒れる大甕の如きだ。
 さて、そこで紙屑を入れる前にひとまず赤ん坊でも入れて−。赤ん坊を連れてこよ。
                (葛原妙子『随筆集孤宴』より引用)

なんとも楽しげなエッセイなのだが、この歌から私が連想したのは救い主としてこの世に来られ、飼い葉桶の中に寝かされた幼子イエスの姿だ。イエスがこの世に生まれた時も、招き入れられる宿屋もなく、馬小屋の中で馬の餌を入れる桶の中に容れられたが、その後、十字架上に捨てられるのである。
エッセイでも短歌でも使われている言葉は、「紙屑」であり「紙屑籠」なのである。決して「ゴミ屑」でも「ゴミ屑籠」でもない。
それ故、人が紙屑を捨てる屑籠にみどり児イエスを容れるという発想は、不可解とは思われない。それどころか、それ故に、私はこの歌から一直線にイエス・キリストを連想する。

しかし、この歌の発想の延長線上に成ったと思われる美しい歌が、最終歌集『をがたま』の中に詠われている。

生誕ののち數時間イエズスはもつとも小さな箱にいましぬ『をがたま』

彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカによる福音書2:6~7)

逭き=青き
空輭=空間
輭近=間近
逭年=青年
數時輭=数時間