「葛原妙子32」で最終歌集『をがたま』に収められた短歌を取り上げたのだが、今回は又、第七歌集『朱靈』へと戻りたいと思う。
『朱靈』の「後記」には次のような言葉が記されている。
省みて『朱靈』をおもふとき、「歌とはさらにさらに美しくあるべきではないのか」といふ問ひに責められる。この嘆きは、とりもなほさず自己不達成の嘆きに他ならず、おそらくは一生、私自身につきまとふ心の飢餓の変形でもあるのだらう。とすればいさぎよくその飢餓とたたかふ外に方法はない。
晴れた浅間山がいま、ここから見えてゐる。偶然にこの山もまた私の坐ってゐる位置から西の方角にあたつてゐる。そして西とはそもそも何なのか。活火山浅間の夕冷えをみるときことにこのおもひはふかい。(『朱靈』「後記」より)
この言葉を読んで、「さらにさらに美しい歌」とはどういう歌だろうか、と考えていた。
この第七歌集『朱靈』は葛原妙子の歌集の中で頂点と言われているようだが、妙子自身は不達成感を感じて嘆いていたということになる。そしてこの自己不達成の嘆きは「心の飢餓の変形」だと言っているのだ。では、「作歌の不達成」という変形として現れた「心の飢餓」の原形は何であったろうか。
この段落の前には、「一ヶ月ばかりヨーロッパ旅行をした」ということと、「私の血をわけた者達の大半はカトリック信者である」ということ、そして自分は「いまもつてそれへの帰依はない」ということと、そのことによる「こころの不毛を不幸とも幸福ともしないところにながらく私はゐる」ということが言われている。
これと同じような心性を吐露した文章が第三歌集『飛行』の「後記」に記されている。
長いひぐれにこんなことを思ひました。
こころだけがみづみづと老いないことはなんといふさびしさだらうと。
それは一生なにかを追ひつめずにはゐられない者のけはしい目が、ふとおだやかな周囲を見廻したときの云ひやうのない敗北感に外ならないと思ひ、・・・と思つてゐると、あの「絶対の探求」の主人公のバルタザルのいたましい末期が浮びました。(『飛行』「後記」より)この文章を読んでいると、妙子の「何かを突き詰めずにはいられない心性」というのが見えてくるように思う。自分自身を誤魔化して、この辺でカトリックに帰依して、その中で穏やかにしてはいられない妙子の性質。自分自身を誤魔化さずに突き詰めていったときに歌は最も美しくなるのではないだろうか。
随筆集『孤宴』には次のような言葉が記されている。
またついでにここで、私のもっとも好ましい歌のあり方を述べるならば、私は歌うことで訴える相手をもたないということである。故に歌は帰するところ私の独語に過ぎない。ただ独語するためには精選したもっともてきとうなことばが選ばれなければならないのである。
こうして私は、歌とは独語の形をとるときにもっとも美しいと信じている一人である。(『孤宴』より)
第七歌集『朱靈』というのは、私は、自らの罪というものに再度真正面から向き合おうとした歌集ではないか、と思う。
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。(ヨハネの第一の手紙1:8)
第六歌集『葡萄木立』を出した後、妙子は中国の朱泥を手に入れる。この朱泥は、中国西湖畔西冷にある老舗「西冷印社」の品物で、『朱靈』は、この朱泥の「美しい朱に因を負うてゐる」と「後記」に書いている。この朱泥を詠った歌が入れられている。
西湖畔西冷印社の朱泥を購(か)ふときまさに西のそら冷えゐたり『朱靈』
・
とり出でし古き朱泥を焙りをりあざやかにしも朱は蘇る
おそろしき中国の朱は拭ひたる朱はふたたび指に影なす
三首目の歌を見れば、この朱は明らかに罪を表していると思われる。「拭っても指に影なす朱」。禁断の木の実をもいだエバの指を思い浮かべないだろうか。第一歌集『橙黄』において「禁断の木の実をもぎしをとめありしらしら神の世の記憶にて」、「イヴといふをとめのありしことすらや記憶にうすれゆくこのごろか」と詠った妙子であったのだが・・。
又『朱靈』には、「葛原妙子9」でも取り上げたカインを連想させる歌も詠われている。
わらわらとかたち崩れし土山がめのまへに復元するまでの時間『朱靈』
荒起せる土塊のひとつひとつづつ生ききたるときカインを怖る
無人野に人をりといふ安心は人をりといふ不安に通ず
無人の野おもむろに翳る一部分タールの如き黒となりゆく
又、「葛原妙子31」でも言及したようにユダを詠った歌もある。そして歌集の終わりの方にはペテロのことも詠っている。
鶏(とり)啼くにペテロおもほゆ鶏啼くに一生(ひとよ)おびえしならむペテロよ『朱靈』
みたび主を否みしのちに漁夫ペテロいたく泣きしをわれは愛せり
こうして見ていると、葛原妙子は、『朱靈』の中で、罪を見尽くそうとしているかのように思えてくる。そして又、キリスト教の神も、罪を無かったことにはされないお方なのである。それ故、キリストはこの世に来られたのだ。人の罪を負って十字架にかかるために。
シメオンは彼らを祝福し、母親のマリヤに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。ーあなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカによる福音書2:34~35)
私は、アダムは木の実をとって食べた時に自分がどういう罪を犯したのかをはっきりと自覚しなかったのではないか、と思う。善悪の知識の木の実を食べたために自分達が裸であることやそのままでは神の前に出られないことには気づいたかも知れないが、与えられた自由を自己本位に行使して神の信頼を裏切ったのだという罪本来の重さを自覚しなかったのではないかと思う。そしてその後の人間も罪を自覚しないまま生きて来た。しかしこの罪は人を十字架にかけて殺すに等しい罪であったのだ。それ故その罪を明らかにするためにキリストは十字架を負わなければならなかった。
キリストが十字架にかけられることによって、ペテロは自分の弱さを自覚し、裏切りの罪を自覚したのである。信仰を言い表すためにはこの罪と向かい合って、自らの罪を自覚しなければならない。
妙子は歌集『朱靈』の中で、救いを求める心の飢餓とたたかって自らの罪を見据えようとしていたのではないだろうか。綺麗事で誤魔化さず罪を見据えて詠う時、妙子の歌はさらに美しさを増し、本当の救いへと反転していくのである。十字架の死からキリストが復活の命へとよみがえられたように。
わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。(詩篇32:5)
ところで、第三歌集『飛行』にはこんな歌が収められている。
つひに火は神の格なりうす暗き土間の隅にし燃ゆるときしも『飛行』
私達は、神の格である火を自己本位に操って煮炊きをし、暖を取り、暮らしを立てているのかも知れない。