風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

多くの人の心にある思いがあらわにされるため(ルカ福音書2:21~40から礼拝説教後半)

(2:33)父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思います。
(2:34)するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言います。「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。
(2:35)そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。

聖書が語る救いというのは、神を知り、神に立ち帰り、神と共に生きることです。
しかし神を示す救い主イエスの前に立つ時、人はその心にある思いが、罪ある思いが明らかにされるのです。
みんなの指導的立場で律法をきちんと守ってまさに信仰深く生きていると思っていた祭司長や長老や律法学者達、パリサイ人達がこのイエスの前に立つ時、その信仰はいったい何を求めていたものなのか、本当に神を求め、神と共に生きるための信仰だったのか、その思いが明らかになってまいります。
私たちはこのイエスに躓き、倒れ、そして差し伸べられたイエスの御手によって立ち上がらせて頂くのです。
それは丁度、聖書に出てくるイエスの弟子ペテロのようにです。イエスを慕って従っていく自分には罪などなく、他の誰よりも熱心に主を愛し主を慕い主と共に生きていると思っていた。けれども主が十字架に進み行かれるときに、自分は主と共に歩めない者だということに気づかされ彼は倒れるのです。その自分の罪を主は知っておられる。知っておられて、尚、自分を召して傍に置いてくださる。忍耐してくださる。導いてくださる。そして復活した主がペテロのところに来て「私の羊を飼いなさい」と言って再び立ち上がらせてくださる。
救いに入れられる時に、これは避けては通れない。私たちは自分の罪を知らなければ、イエス・キリストに救われる必要性すら感じない。イエスに躓き、倒れる。けれど主はその私の全てを知っている。その私のためにあの十字架へと行かれる。私を救うために無力な幼子となって、人となって来てくださる。その主に再び立ち上がらせていただく。
これは、割礼が指し示していたことが実際に起こっていくということです。
私たちの抱えていた罪、自分でさえ気づかなかった罪が、しかしそれが明らかにされ、それを切り取られ、主によってそれが捨て去られ、そして新たに又生きる者とされていく。
旧約のしるしがこのイエス・キリストによって私たち一人一人に、本当に私たちの体も心も魂も救うその出来事となることが記されているのです。

もう一人、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者が登場致します。
彼女は非常に年をとっていました(2:36)。八十四歳になっていたと語られます。そしてこの人は神殿を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた(2:37)。今日で言うならば、修道院に入って神に仕える生活をしているような、そういう生活でしょうか。このアンナも、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせたのです(2:38)。おそらく50年以上、夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えてきたこの女性も救い主と出会います。神に仕えて生きた人生が虚しくなかったことを、神は証ししてくださいました。

この場面、物語の中心にいるのは、無力な幼子と、そしてもうすぐ人生が終わるであろう年老いた二人の男女であります。そして場所はエルサレムです。
このルカによる福音書を編纂したルカは、この福音書をローマの中で身分の高いテオピロ閣下と呼ばれる人物に献呈をしています。テオピロは首都ローマにいます。ローマから見ればエルサレムなど地の果てなのです。
遠く地の果てエルサレムで起こった些細な出来事、無力な幼子と二人の老人、けれどそこにおいて神の御業が成される。神を信じて生きてきたことが虚しくなかったと喜びを与えてくださる神がおられる、その出来事が起こった。そして遙か遠く名前も分からないような人が出てくるその話が、時を超えてこのローマに伝えられていく。
今、あなたの耳にも届いている。色々なことが起こっては過ぎ去っていく、色んな国が興っては消えてなくなる、今ローマは力強いけれどもいつかこのローマも滅びる、けれどここに決して滅びることない神の救いの出来事がある。あなたを決して虚しくなどしない神の救いの出来事がここにおいて成され、私たちに対する愛と真実によって救いへと導き入れてくださる神がおられる。約束を成就して信じることに報いてくださる神がおられる。人の思いを超える救いで、すべての人を招かれる神がおられる。
テオピロ閣下、あなたの人生を喜びをもって完成し、救いへと導いてくださるのは、あのローマ皇帝だろうか。いと小さき所、無力な姿で救い主を遣わされる神、信仰を持って生きてきた者を喜びで包んでくださる神、この方こそがあなたをも救いへと導いてくださるお方なのですよ。
ルカはそのようにテオピロに、そしてローマに住む人たちに語りかけ、そしてこのルカが編纂した福音書を神の言葉として聖書に収められた神は、今この言葉を通して私たちにも語りかけておられるのです。
あなたの人生を最後喜びへと導くのは誰か。様々な力ある者がこの世で力をふるっています。そこから見ると私たちの生活はいと小さく、世界の誰も知らないような、そんなふうに見えるかも知れない。けれどもそこにおいて神は救いの御業を成されるお方。
私が信じてきたことを良かったと、あぁ、これが神さまの約束の成就ですか。私が期待してたよりもはるかに大きな、はるかに素晴らしい!あなたを信じて生きて来たこと、全てをあなたは益としてくださいました。
そのように思える喜びを与えてくださる真の神がここにおられる、あなたのために神はこの救い主をお遣わしくださったのだと。
救い主と出会い、神を知るところにおいてこそ、希望ある未来が開けていきます。
今こそ私たちは、この神の言葉を通して私たちのためにお生まれくださった救い主と出会い、神が与えてくださる新しい年に向かって喜びと希望を持って進み行きたいと思うのです。