風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子35

頬杖を突きてしあればニイチェ云ふかのぶきみなる客は来ざるか『朱靈』
これは、頬杖を突いていると「ルサンチマン(「恨みがましさ」と訳しても良いだろうか?)が心に巣くう」とでも言っているのだろうか。それとも「ぶきみなる客」だから、デーモンでもやって来て何か耳元にささやきかけるとでも言っているのだろうか。

葛原妙子の短歌について書いていると、妙子の知識と、読んだであろう書物の多さに私など到底ついていけないとしばしば思わされる。けれどニーチェを詠んだ歌については避けて通るわけにはいかないように思い、ニーチェのことを少々調べてみた。

ルサンチマン」というのはキェルケゴールが確立した哲学概念のようだ。が、ニーチェはこれを抑圧されたキリスト教徒の心性(現状に満足できない者が心の中で不満を託ちながら彼岸にのみ望みを託そうとするような・・?)に当て嵌めて用いようとした、と私は理解したのだが・・。そう理解すると、この歌の「ぶきみな客」は「ルサンチマン」として捉えるほうがぴったりくるような気がする。「頬杖を突いていると、不満や恨みやあきらめが心に巣くわないか」というような・・。キリスト教信仰の周辺に居続けた妙子が詠った歌であれば、ここを、ニーチェの言った「ルサンチマン」だと解釈することの意味は大きい。

ニーチェの思想だけを見たときには、ニーチェという人は、キリスト教の本質を見ないでキリスト教的な囚われに対してしきりに闘った人なのではないかと私には思えたのだが、ニーチェの生い立ちを見てみると、ニーチェ自身がルサンチマンに囚われ、そこから救われることがなかった人なのではないかと思えてくる。
ニーチェが5歳の時、牧師であった父親が亡くなり、その後すぐ弟も病死する。父親と弟を亡くしたニーチェは、母と妹と共に、父方の祖母らと同居するため生まれ育った故郷を後にする。詳しいことは分からないが、生活に困っていたようには思えないが周りは女性ばかりだったように見える。その辺から、ニーチェの心の中には幼い頃から父親不在の「心許なさ」というようなものがずっとあったのではないか、と私は想像する。
死に纏わる事柄というのは、人に尋ねることが出来ないものである。殊に、「どうして僕のお父さんは死んでしまったのか」というような事柄については。これは、尋ねるとするなら神に尋ねる他ない事柄なのだ。けれど私は、ニーチェは神にも尋ねなかっただろうと思う。誰かの死を止めることは誰にも出来ない。けれど神に尋ねなかった代わりに、幼かったニーチェの魂の中に、父親の死をどうすることも出来なかった自分への無力感だけはその後も留まり続けたのではないか、と私は思う。「運命に対して何も出来ないちっぽけな自分・・」というように・・。しかし、この無力感こそはルサンチマンを生みだす根底にあるものではないか!

寒き日の溝の邊(へり)歩み泣ける子よ素足のキリストなどはゐざるなり『飛行』
生い立ちから見れば、葛原妙子もニーチェと同じく、いやニーチェ以上に寒い日の溝の縁を歩いて来たと言えるのではないだろうか。

抱かれし記憶一つなし名聞(みやうもん)の著き醫師(くすし)にて在しき君は『橙黄』
複雑なりし親子の愛情をたぐりをりともかくもわが手に看取りし一年
父生きてありし日の肩大きかりし 摑まむとしてつね喪ひき『朱靈』
われを育てたまはざりにし未知の母未知なるままに死にたまひしと 異本『橙黄』
抱かれし記憶なき母死にたまひわが肩にしも觸るることなし
ふたつまなこ暗く死にたる父のゐて生けりし父のわが手に無し
「燈(とう)熱し院長神のごとく立つ」誰びと執刀者父を詠じたまひし
倚らしめむ一樹だになし火葬場の白昼に骨を抱きて立てり
鳶色に褪せたる写真若者父はわが子に赦されたまはず『鷹の井戸』

以上の短歌は、出された歌集の年代順に並べてみた。異本『橙黄』というのは、第一歌集『橙黄』に妙子自らが手を入れ、新たに作った歌を含めて『橙黄』として『葛原妙子歌集』(三一書房)におさめられたものを指す。この『葛原妙子歌集』は妙子が67歳の時に刊行されたもので、第七歌集『朱靈』と第八歌集『鷹の井戸』の間に位置する。

生育歴を調べているわけではないので詳しいことは分からないが、葛原妙子の場合は幼い頃に親と死別したのではないようだ。けれど、幼い頃に両親とも自分の傍近くにいないという状態は相当に厳しい生い立ちだったと言えるだろう。『鷹の井戸』の一首を見ても、幼い頃のことがここまで引き摺られてきているのだと感じさせられるように思う。けれど、父親と死別したニーチェとの違いがこのあたりにも表されているように思う。つまり妙子は神に向かってというより、自らの父親に向かって問い続けてきたということだ。「どうして私をあなたの元で育ててくれなかったのか」と。厳然として動かしがたい死の前で神に問う他ない場合と、罪を犯し、間違いを犯す生身の人間に向かって問う場合と・・。しかし又、異本『橙黄』「燈熱し」の歌からもうかがえるように、父の彼方に父なる神を捉えるような思いが妙子自身の中にもあったろうと思う。
このように微妙に違いながらしかし幼い日に同じような深淵を歩いて来た妙子とニーチェの道が、どこから分かれていったのだろうか。もちろん人の信仰について独断することは慎まなければならないと思う。殊に、晩年のニーチェが「どうして私は、私の全生涯を感謝せずにおれようか」(『この人を見よ』)と語ったというのであれば尚のことである。けれど又、葛原妙子は自ら信仰を言い表し洗礼を受けている。このことは大きいのである。

晩年の妙子が信仰告白へと至ったということが、やはり『鷹の井戸』のこの短歌を見た時、納得することが出来るように思われる。

鳶色に褪せたる写真若者父はわが子に赦されたまはず『鷹の井戸』
『鷹の井戸』が出版されたのは妙子が70歳の時である。「鳶色に褪せたる写真」に時の経過が表されている。そのように長い年月が過ぎて、死んでしまった後でさえ、父はわが子に赦されないのである。「わが子」とはもちろん妙子自身のことだ。つまり、写真の色が鳶色に褪せるほど長い時が経過しても、妙子は父を赦せないでいたということだ。この「赦せない」という思いほど、自分自身を苛むものはないのではないか、と私は思う。父への思いは愛憎が綯い交ぜになった複雑なものであったと言える。一方で愛情を感じていれば、尚更、自分を責め苛む思いも強くなる。どうでも良い人間に対しては負の感情もそれほど強くは抱かないものだ。しかし、この思いは又、罪の自覚へと私たちを導く可能性を持っている。信仰告白へと至るかどうかというときには、ただ自分の無力を嘆くというだけでなく、自らの罪を自覚するということが新たな道を開いていく鍵になる、と思われる。

壮年のフリードリッヒ・ニーチェいひけらく、われは彷徨ふ犀の如し、と『鷹の井戸』
冒頭にあげた第七歌集の短歌は、ニーチェからの警告に耳を貸しているふうな歌である。が、第八歌集である『鷹の井戸』のこの歌は、ニーチェをわずかに遠方に押しやってニーチェ自身を見て詠った歌のようである。
私は、ニーチェの書物を全て読んだわけでもないので、ニーチェが「彷徨う犀のようだ」と自らのことを言ったのかどうかは分からない。ニーチェが亡くなったのは56歳だったようだが、45歳で精神に異常をきたし母親の元に引き取られていたということだから、この歌の「壮年の」というのは45歳以前の哲学思想を完成させた頃のニーチェということだろうか。精神に異常をきたしたのには生化学的な要因もあるかも知れないから、一概に哲学的な思索が破綻へと向かわせたと断定することは出来ないだろう。けれど、「永遠回帰」という思想と晩年のニーチェから「彷徨ふ」という状態を思い描くことは、ニーチェ本人でなくとも難しいことではないように思う。

さて、ここで書こうとしているのは葛原妙子のことである。
第七歌集『朱靈』は自らの罪に向き合おうとした歌集であると思うが、第八歌集『鷹の井戸』は、尚その問題を抱え、行きつ戻りつしながら信仰へと進んで行っている歌集ではないかと思う。私たちには完全に自己の罪を自覚することは出来ないのかも知れない。けれど、不完全ではあっても、この「自己の罪の自覚」が、信じる道へと至るために不可欠であるように思う。

その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。(箴言28:13)

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(ヨハネの第一の手紙1:9)