風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

人はパンだけで生きるものではない(ルカによる福音書4:1~4から礼拝説教)

主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、救い主としての活動の最初に受けられた「荒野の試練」と呼ばれる出来事について聖書から聞きたいと思います。

今日は、三つ受けられた中の第一の試練。
「人はパンだけで生きるものではない」ー有名な聖書の言葉です。そしてしばしば人々から揶揄されることの多い聖書の言葉でもあります。「人はパンだけで生きるものではない。そう、パンにぬるバターも必要でしょ。スープもなくっちゃ」「パンだけじゃダメだよね。日本人はやっぱりご飯と味噌汁がなくては」と。
けれど私は、その揶揄が一概に悪いことだとは思っていません。
信仰が建前になっていくと、いざという時、本当に困難に出会った時に、役に立たなくなっていきます。それは、よそ行きの信仰、よそ行きの姿であって、「この危機の状態においてそんなことは言ってられない」というふうになってしまうことがあります。
ですから私達は神の言葉に対して自分の中で「えっ?」と問いが現れてくる、疑問が湧き上がってくる、それは大切に問うてみる必要があるのだろうと思います。
六日間かけて説教の準備を進めてまいります。その途中ではしばしば神に対してこういう問いかけをしながら、それでも神はこう言われるのかということを問いつつ、神の御旨を求めてまいります。
「人はパンだけで生きるものではない」ーそれは分かります。けれども、「衣食足りて礼節を知る」というように、パンは生きる命の根源に関わることではないだろうか。やはりパンは大事ではないだろうか。ここでイエス様はなぜこの言葉をもって誘惑を斥けられたのだろうかーそういうことを問いながら、説教の準備をしてまいります。
ですから私達は神の言葉の前に、神の前に、よそ行きの服を着て、よそ行きの格好で出るのではありません。私達のありのままの姿でーそれはしばしば躊躇われることです。エデンの園で、神様が「どこにいるのか?」と問われた時にアダムが「私は裸ですからあなたの前に出られません」と応えたように、ありのままの、不信仰な、神の御心とは違う思いを抱く自分の姿のまま、神の前に出るということは躊躇われることです。けれど、その私達の姿を神は知っておられるし、知っていて尚私達を愛し抜いてくださるお方なのです。
私達は本当に神の言葉を信頼して喜んで聴くことが出来るように、私達の内にある問いかけ、疑問、神の言葉に対する否定、それをさえ神に受けとめていただかなくては、私達の信仰は神の国へと進んでいくことは出来ないのではないか、そう私は思っております。

さて、今日の箇所ですが、
4:1 イエス聖霊に満ちてヨルダン川から帰られました。この前のところで、イエスが洗礼を受けられたことが書かれています。
3:21〜22 イエスバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」この出来事があって、イエス聖霊に満ちてヨルダン川から帰って来られる。そしてその聖霊に導かれて荒野を40日の間、何も食べずに歩かれたわけです。
4:2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。聖書においてこの40というのは象徴的な数字です。
出エジプトの時にイスラエルの民が荒野を旅したのが40年という年数でした。ですからここで、イエス聖霊に導かれて荒野を40日歩き回られたのは、約束の地である神の国に入る旅を象徴する事柄でした。ですから、私達にとって、この40日が象徴するものは、神の国に入るまでの私達の人生そのものなのです。
そして聖書が伝えているのは、その神の国に入るまでの人生において、私達はここでイエスがお受けになられた3つの試練に遭うのだということです。これは試練が3回あるということではありません。私達が荒野の旅をしていく限り、神の国に入るまでこの罪の人生をおくっていく限り、この3つの試練に繰り返し遭うのです。
試練と訳された言葉は、誘惑とも訳される言葉です。試練は乗り越えれば信仰の成長となり、負けてしまうと神から次第に離れて行ってしまう誘惑となります。そのようなものがこの罪の世にあることを、私達は知っております。
エスは救い主として歩み出された時に、私達が受ける試練、誘惑を自らお受けになって、何によってその試練を乗り越えていくのか、誘惑を斥けていくのか、どのようにして神と共に歩むのかを私達にお示しくださいました。この時イエスは40日間何も食べず、空腹になられました。
出エジプトイスラエルの荒野の旅の時には、神はマナを降らせ、うずらを呼び寄せて食べる物を与えてくださり、モーセがその持っている杖で岩を打つと水が吹き出てきました。神に導かれて荒野を旅していくというのは、種を蒔いて収穫を得るのではなく、家畜を飼ってそれによって食べものを得るのではなく、神によって日々の糧が与えられるのだということ。私達の一日一日は神によって支えられているのだということを、イスラエルの民はあの出エジプトの旅において経験させられたのです。
ところが今イエスがこの40日間荒野を歩まれた時に、何も与えられない、かつて神はイスラエルにマナをお与えくださったけれども、今わたし(イエス)には何もお与えにならない。御心に適う者だと言われたのに、聖霊を注いでくださったのに、そしてその聖霊がここへと導いて来たのに、神から命を支える糧が与えられない。

そこで悪魔がイエスに向かって囁き語りかけます。
4:3 「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。これは実に巧妙な問いです。この問いに対してイエスは御言葉をもって斥けておられますので、この問いにのってはいけないということははっきり分かります。けれど、この要求の何がいけないのかということに気づくのは難しいことだと思います。
私達の生きているこの社会において、人が一般的に持っている規範というのは「人に迷惑をかけてはいけない」という規範です。ところがこの求めは、人に迷惑など何もかけないのです。誰かから奪い取り搾取するのではありません。そしてただ単に私利私欲のために、私腹を肥やすためというのではなくて、今、命がそこにかかっているのです。もう40日食べていないのです。
「あなたには、それをする力があるんだから、40日何も食べてないし、石をパンにかえてもいいんじゃないでしょうか」まるで悪意が感じられない、「あなたのことを心配しているのだ」と言っているかのような問いです。
この問いの裏には、いったいどのような言葉が隠されているのでしょうか。それは、「神様は頼りにならないんじゃないの」と、神への不信感を抱かせる言葉、神から私達を引き離そうとする言葉、「あなたはこんなにお腹がすいている。空腹で倒れそうなのに、神様は何もしてくれないじゃないの。神様のことは当てにしないで、あなたには力があるんだから、自分のために自分の力でやったらいいじゃないですか。」という言葉です。
それに対するイエスの答は、「私はパンを第一にしない。私が第一にするのは、神と共に生きることだ」ということです。それが、主イエスの言葉の中に含まれている事柄です。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。神の民の務めは、神と共に生きることでありました。神に信頼し寄り頼んで生きることでありました。私達の命をお造りになり、そして私達を愛し私達を救ってくださる真の神がおられるということ、そのことを人生を通し生涯を通して証ししていくこと、それが神の民の第一の務めでありました。そして今この荒野の40日の歩みにおいても、「私達の命を支えるためにはパンがなくちゃダメでしょ」という当然のような問いが湧き上がってくる中で、「私は神に信頼をし、私は神の御心に従って与えられた力を用いるのだ」と、イエスは後に続く神の民にお示しくださったのです。
十字架を負っても、その命を捧げても、神の御心こそ私達の救いであるということを証しするために主は来られ、今、その救い主としての生涯の最初においてこの試練に遭われたのです。

「パンがあれば神なんか信じなくったって生きていけるじゃないですか。私はそうやって毎日生きていますよ」と、そう言う人達がたくさんいる時代のただ中に私達は置かれています。けれども、人はその人生の中で様々な出来事に出遭っていきます。試練に出遭っていきます。そのような中で、パンがあってもこの私のこの苦しみは何も解決されないという、そのような出来事に出遭っていく時があります。そういう罪が支配する時代の中で生きている人達に対して、私達は「人はパンだけで生きるものではない」ーパンは必要だし、パンを神に求めている、私達は主から「日毎の糧を与えてください」と、そのように祈るようにと、その祈りも与えられている。けれど、パンだけで生きるのではない。そしてパンが第一でもない。私達の命を、この私の人生を支え、導き、そして救いに至らせるのは私を愛してやまない神ご自身であるということを証しする務めを負っているのです。

最初に言いましたように、これが建前になると何の役にも立たなくなっていきます。
私達が生きている中で、「いや、神様、そうは言っても、今のこの状況の中で、パンがないことには、仕事がないことには、どうやって生きていったらいいんですか」と、そういう言葉や思いを封じなさいというのではありません。
そういう思いも含めて、この言葉の前に立つ。この試練を受けられた主イエスの前に立って、「イエス様、それはあなただから言えるんじゃないですか、私には到底無理です、苦しいです」ーそういう私達のありのままを主に受けとめていただく。どこか不信仰な部分は見せないでおいて、信仰的な部分でだけ神の前に出るのではなくて、私達のすべてをこの主に受けとめていただく。
ぱっと読んで、一回説教を聞いて、なるほどその通りだと思わなくてもかまいません。
けれど、この主の受けられた試練は、必ず私達の人生に何度も何度も現れてまいります。そしてそこから抜けていく道、それを乗り越えていく道は、主自らがお示しくださったように「神にこそ寄り頼む」ということです。

「私の嘆きも苦しみも、私のすべてを主よ受け止めてください、支えてください、私はこのままでは立ってはいけません」と言って、祈り委ね、そして神によって新たなところへ導いていっていただくのでなければ、私達の信仰は単なる飾りになってしまいます。
よそ行きの服を着て、背伸びをして私達は礼拝に集い神の前に立つのではありません。ありのままの罪も弱さも愚かさも抱えたままで、私達は神の前に出、神に受け止めていただくのです。

私達を救うために、私達と同じ姿をとり、私達の受ける試練を先ず最初にお受けくださった主は、私達の弱さも欠けも苦しみもご存じでなのです。主は知っておられるのです。
その主に私達は支えられて、導かれて、この年も、この罪の世での歩みを主と共に歩み、神の国へと歩んでいくのであります。

祈り
父なる神様、私達を救いへと至らせるために、主は私達の歩まなければならない道を先立って歩んでくださり、試練をお受けくださいました。私達の目には、主だからこそ乗り越えられた試練のようにしばしば思えてなりません。けれども主はこの出来事を通して私達に語りかけ御手を差し伸べていてくださいます。どうか私達も日々の生活の中で、あなたこそ私達の生活を支え、人生を導き、救いへと至らせる真の神であることを知る者とさせてください。そしてどうか私達の信仰も、「人はパンのみで生きるのではない」ーそのように告白してあなたの御前に立ち、御顔を仰ぐものとさせてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。