風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

脱原発デモ2万人超!と「求めよ、探せ、門をたたけ」

13日の礼拝説教は、ルカによる福音書11章5~9節からだった。
ここには有名な「求めよ、さらば与えられん」という言葉が出てくる。この言葉はマタイ福音書にも出てくるが、ルカでは、イエスが弟子達に「主の祈り」を教えた後に話されたたとえ話のところで語っておられるという。直前の11章2節以降には次のように書かれている。「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」(ルカ福音書11:2~4)今、私たちが祈っている「主の祈り」の中にはマタイからの「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ福音書6:10)という祈りも入っている。この、イエスから教えられた「主の祈り」を見てみると、実際私たち人間がすすんで願い求めるのは「日々の食物」くらいではないか、というのだ。私たち人間は自分が生きていくための日々のパンを求めることはいくらでもする。けれど、神の国(支配)が来ること、神の御心が地にも行われることを熱心に願い求めることは、勧められなければ自らはしないのではないか、というのだ。けれど、イエスは、それを求めよと言われたのである。神の国が来ること、神の平和が地にもなることを熱心に祈り求めよ、と。

この説教を聞きながら、私は脱原発デモを続けておられる大勢の人々のことを思った。この人たちは、「主の祈り」は知らないかも知れない、「主の祈り」を祈ることはないかも知れない。けれどこの人たちは、熱心に「神の平和が地にもなること」を祈り求めている人たちではないか、と。

ルカ福音書11章のたとえ話の後には次のように書かれている。

しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(ルカ福音書11:8~9)

  デモは2時集合ということだったが、すごい人&警察のせこい分断でボクがいたブロックが歩き出せたのは3時頃だった。