イエスは彼に言った、「友よ、あなたはこのために来たのか」。その時彼らは進み出て、イエスに手をかけ、つかまえた。(マタイ福音書26:50『田川建三訳著 新約聖書』より)
そしてその一片とともに、その時に、サタンがその者の中へと入った。それで彼にイエスが言う、「汝がなすことを、すぐになせ」。(ヨハネ福音書13:27『田川建三訳著 新約聖書』より)
田川建三訳は原文に近いということのようで夫はこの田川建三訳新約聖書を揃えようとしていた。古書店に出そうかと考えていたが、まだ新しいので、何かの参考になるかと思い教会の図書に置かせて貰うことにした。
この方は聖書学者のようだが、信仰は持ってはおられないようだ。
以下には、田川建三氏の註から抜粋引用させて頂いた。
50 あなたはこのために来たのか
「この」と訳した語(ho)を我々のように関係代名詞に取らずに疑問詞ととれば(しかし普通は関係代名詞である)、「あなたは何のために来たのか」と訳すことになるが(口語訳等)、意味は変わるまい。これをひねくって、「自分の仕事をなすがよい」(つまり、勝手にしやがれ、ということ)と訳そうという意見もあるが(たとえばエルサレム聖書のブノワ。新共同訳も。ただしもちろん新共同訳の訳者がフランス語のエルサレム聖書を真似するわけがなく、ここは相変わらずNEBの英語からの直訳)、ひねくりすぎ。原文には「なすがよい」などとは書いてない。また「自分の仕事」(ブノワta besogne、NEB what to do)も持ち込み。この種の勝手な作文はやらない方がいい。もっとも、それを言うなら、マタイ自身がここはマルコにない文を勝手に創作して持ち込んでいるけれども。(マタイ福音書20:50の註『田川建三訳著 新約聖書』より)
「ひねくりすぎ」、笑い。
「マタイ自身がここはマルコにない文を勝手に創作して持ち込んでいるけれども」ーこれは、福音書がマルコ福音書が最初に書かれた物ということから言っておられるのだと思うが、最初に書かれたマルコの通りが正しいというのであれば、他の福音書は必要ないということになるから、マタイ福音書の訳をする必要もないだろう(笑)。
マタイ福音書ではなすべきことを「なすがよい」とは訳せないということのようだが、ヨハネ福音書では「汝がなすことを、すぐになせ」と記されているようである。
この部分の訳については、ヨハネ福音書の註では触れられていない。
27 そしてその一片とともに、サタンがその者の中へと入った
この章の二節ですでに悪魔はユダの心の中に裏切りの思いを投げ入れている。つまり、すでに悪魔はユダの中に入り込んでいる。ところが今度は、ここではじめてサタンがユダに入り込んだかの如き書き方をしている。どうもこのあたり、著者は自分が書いた文をしっかり頭に入れないで続きを書いているみたいである。まあ、毎度のことだが。(ヨハネ福音書13:27の註『田川建三訳著 新約聖書』より)
「まあ、毎度のことだが」、笑い。
「著者は自分が書いた文をしっかり頭に入れないで続きを書いているみたいである」ーこれは、福音書が一人の人物によるものという前提に立った言葉である。しかし実際のところ、どうかは分かっていないのではないだろうか。聖書の中に記された書物の中には複数の著者によるという説も多々あるようであるし。たとえばイザヤ書や、パウロの書簡等でも一つの書簡の途中で調子が変わっていて、同一人物の物かどうか?という書簡もあるようだし・・?
しかも、「サタンが入った」等という(笑)実証しようにも出来ない事柄を書いた書物について言っているのである。
ここに関連して28節の註も重要になってくるので、長いのだが、28節の註も抜粋引用してみたい。
28 座についていた者たちの誰も・・・わからなかった
この文(従ってこれに続く次節)は、話のつながり上、奇妙である。(略)
というわけで、ここでも二八ー二九節ないし二七ー二九節を「挿入」とみなそうとする学説が生じる。ブラウンは、後の(福音書の著者以後の)挿入。ブルトマンは、話の全体はすでに「伝承」において語られていた事であって、その中に著者が下手にこの部分を挿入したのだ、という説。しかし「挿入」とみなすのであれば、ブラウンのように考える以外ない。ブルトマンのように、この福音書の大部分は「資料」なるものの文をそのまま右から左に写し、そこに時たま福音書著者が挿入分をつけ足した、などと主張する仮説は、まるで根拠を持たない。しかしブラウンさんのように、このように時々後の人物による挿入の箇所があると主張しながら(けっこう多く指摘している)、しかもその挿入をなした人物を「教会的編集者」として認識せず、むしろむきになって教会的編集者の存在を否定する、などというのは、態度としてまるで矛盾している。この部分(二八、二九節)を福音書の著者の文としてうまく説明できないのであれば(まあ無理だろう)、教会的編集者の手に帰する以外にあるまいに。教会的編集者はイスカリオテのユダの悪口を言うのが好きなのである。(一八節の註の末尾参照)。もしも二八、二九節を教会的編集者による挿入とみなして除けば、文章は二七節から三〇節にすんなりとつながる。イエスはパン片をユダにわたして言った、「汝がなすことを、すぐになせ」。そう言われてユダは、そのパン片を受け取り、すぐに出て行った…。(ヨハネ福音書13:28の註『田川建三訳著 新約聖書』より)
古くから教会側の都合の良い作為というのもあったのかもしれない。
しかし、ヨハネによる福音書では、「汝がなすことを、すぐになせ」と訳して良いということのようだ(笑)。
こんな風に極めて刺激的で面白く読めるのだが、極めつけは、マルコによる福音書14章21節の訳、及び註である。
すなわち人の子は、彼について書いてあるように去って行くが、人の子を引き渡そうとしているその者には、禍いあれ。その者にとっては、生まれない方がよかった」。(マルコ福音書14:21『田川建三訳著 新約聖書』より)
21 その者には、禍いあれ
新共同訳は「その者は不幸だ」。その人御本人が不幸かどうかを言っているのではなく、「禍いあれ」という語(例の ouai という語)は、その人に対して呪いをあびせかけているのである。嫌な表現だが、そう書いてあるのだから、そうとはっきり訳さないといけない。(マルコ福音書14:21の註『田川建三訳著 新約聖書』より)
「若い頃、読み囓った本」
さて、私の結論はこうだ。
どんなに知識を持っていたとしても、どんなに原文に忠実な訳をしたとしても、聖霊の働きがなければ福音は語れない。そしてそのような知識は人の存在を根底から支えることはない、ということである。
しかし、私は八木誠一氏の『キリストとイエス』を読んで、教会に留まろうと思った。
これを書かれた頃の八木氏はまだ信仰を告白してはおられなかったと思う。
神の民を救うために敵をもお用いになる神さまの、生きて働かれる神さまの “不思議” を思う。
原文は感嘆文のような形で「ましてや彼らの満ちることが」(田川建三訳)となっています。満ちるというのは、欠けていたもの、キリストを信じないで救いから外れていた者たちが救いへと導かれ神の民が満たされることを言っています。
(略)
今日の説教個所は凄いところだった、と思った。
イエス・キリストが十字架上で捨てられるというのは、イスラエルが捨てられることの完成形だったのだ、と思ったのだった。
だから、考古学で新しい何かが発見されたというようなことは私の信仰と何ら関係がないように思える。イエスが誰かと結婚していたとか、子どもがいたようだとか、そういった発見が私の信仰に影響を与えることは全くないと思う。それと同じように、進化論が正しかろうが間違っていようが、そういったものが私の信仰を揺るがすことは全くない。むしろキリスト教徒が躍起になって進化論を覆そうとしているのを見たりすると、その熱情がどこから来るのか理解できないと思えるほどである。
私の信仰は逐語霊感説には立ってはいないと思う。けれど、信じる対象であるキリスト像は聖書が伝えるものなのだ。これはどういうことかと考えてみると、私が信じているのは聖書の一語一句ではないということなのだと思う。私が信じているのは、イエスによって表される救いの神の愛なのだと思われる。だからむしろ、「愛である神」が存在しないのではないかと思われる事柄や出来事の方に私の信仰は揺らぎやすいと言える。
「何のために子供たちまで苦しまなけりゃならないのか」などと、どんなに優しげなことを口にしたところで、「神などいない」と囁いて神から私たちを引き離そうとするのは悪魔に違いないということは充分承知しているつもりであるが、ドストエフスキーのカラマーゾフの三兄弟の中では、私はやはり、次兄のイワンに最も共感する。