風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

田川建三ほか『はじめて読む聖書』からドストエフスキーへ

いつものように夫が買ってきた本を先にちらちら読んでいる。田川建三ほか『はじめて読む聖書』(新潮新書。この中でもやはり面白いと思うのは「神を信じないクリスチャン」というタイトルのついている田川建三氏のところである。以下に引用する。

 積極的に神を考えようとすると、どうしたって自分が神の像をつくるじゃないですか。そのとたんに神は神でなくなる。人間がつくる神のようなもの、というにすぎなくなる。旧約聖書の時代には、神の像を刻んではならない、と言っていた。このことを拡張して考えると、単に彫刻をつくることだけじゃなくて、自分の頭の中に神の像をつくり、神という理念をつくり、その神によってすべてを説明する、というようなことになってはならない、ということじゃないでしょうか。そうなると、人間が神の被造物であるのではなく、神を人間がつくってしまっている。人間がつくった神によって人間社会を支配することになってしまう。いや、これはカール・マルクスが言っていることですけどね(笑)。(『はじめて読む聖書』より)
最後の「これはカール・マルクスが言っていること」というのは、人の頭の中で作り出されたヘーゲルの「神」をマルクスは人の頭の外へ出したということを言っているのだろうか?けれど、「神」を人の頭の中から外へと出したマルクスは、「科学」に置き換えて「至高」としたのではないかと思うのだが、私の理解は間違っているのだろうか?

聞き手である湯川豊氏に答える田川氏のこの続きのところが又面白い。引用する。

ー二十世紀後半には、いよいよ自然科学が発達して、この世界が分子レヴェルにまで細かく分析され、世界の成り立ちが把握できるようになった。しかし自然科学が世界の成り立ちを解明すればするほど、この世界がはかり知れぬ精緻さでできていることがわかる。世界が巨大化するといってもいいと思うんです。そして巨大化すればするほど、認識上の細い道を通って、はかり知れぬものの存在、それを黙々とつかさどっている神のような存在の近くに行けるのではないか、と思えることがあります。
田川 その道に入り込んで、神信仰の宣伝をやらかした自然科学者が、たとえば、晩年の湯川秀樹さんです。私も詳しく知っているわけではありませんが、こういう人を引っぱり出す方が悪いのだけれども、宗教関係者が湯川秀樹さんを好んで引っぱり出して、彼に、この巨大な自然世界を見ればやっぱり神は存在する、だから神を信じなさい、だから宗教は大事です、と言わせたがった。そうすれば、既存の宗教体系は丸ごと肯定されることになるでしょう。人はおだてられると嬉しくなるから、湯川秀樹さんもついそういう誘いにのって、宗教宣伝のお先棒をかつがせられてしまったわけです。
 しかし逆にこれは自然科学者の思いあがりです。すぐれた自然科学者であれば、正確に探求しているから、この先は我々には知りえない、という限界も知っているはずです。しかし良心のある科学者であれば、そこで立ち止まるべきだと私は思います。知ったような顔をして、その先に神が認識できます、などとしゃべって歩いてはいけない。私が不可知論と言うのは、知らないことについては、とことんまで何も言うな、ということです。少なくともその方が謙虚だと思います。わからない巨大な無限なものが向うに広がっているというんだったら、正直に、その先はわからないのです、と言って、あとは黙って頭を下げればいいじゃないですか。それを知ったような顔をして、神とか何とか言ってしまうと、もうすでにわかったことになってしまう。下手にわかろうとするから、神とか何とか言いたくなるんです。
ーなぜかしら溜め息が出るような認識世界ですね。しかし神は存在しないと言うキリスト教徒がいることについては、感覚的にわかったような気もします。
田川 私の言ったことが正しいかどうかについては、いろいろお考えがあると思います。しかし私がクリスチャンであるということはお認めいただけると思います。(笑い)。(『はじめて読む聖書』より)

「詳しく知っているわけではありませんが」と言いながら、湯川秀樹について言及している田川氏にも面白いと感じるのだが、ここの話を聞いて「神は存在しないと言うキリスト教徒がいることについて」わかったような気がすると言っている聞き手側にも面白いと感じたのだった。私には解らなかった(笑)。けれど、ここで田川氏が語っている自然科学についても、先の偶像についても、同じようなことを私も思っているのではあるが・・。

この後のところを読むと田川氏が神は存在しないと言いながら自分はキリスト教徒だと言っていることが解るように思う。

ー教会のなかにある聖書としてではない、古文書としての聖書を読む。すると田川さんが『イエスという男』にお書きになった歴史的人物がそこに浮かびあがってくる、ということですね。
田川 古文書と言っても、これを書いた人マルコがいて、書こうとした対象であるイエスがいた。その生きた姿が浮かびあがってくれば、そしてその存在の大きさをそのまま紹介できれば、と思うんです。・・。古文書と言ったって、趣味的世界のことではありません。これだけの分量のものが今に伝わっている。それによって書かれた対象の実像が、我々が努力すれば、そうとう浮かびあがってくる。(『はじめて読む聖書』より)

つまり田川氏は古文書である聖書を正しく訳すことでイエス・キリストを浮かびあがらせ、その歴史上のイエスをキリストとしているので、自分はキリスト教徒だと言っているということのようだ。だから、この中で田川氏は三位一体の神を否定して、元々のキリスト教徒が父なる神として信じている「神」は存在しない、と語っている。けれど訳の正しさを追求する田川氏のこのようなあり方は、回り回って巡り巡って、逆に田川氏が批判している逐語霊感説と同じようなあり方へと行き着いてしまうのではないかと思うのだが、どうだろうか。「クリスチャン」というのは「キリストに属する者」とか「キリストに従う者」という意味らしいから、「神を信じないキリスト教徒」というのも全くおかしな言い方ではないようにも思うが・・?(しかしそれなら、「クリスチャン」というより「イエスチャン」と言う方が良いのでは?いや、イエッスシャンかな?)。

もう一人、田川氏とあらゆる点で対照的であるように見えて、歴史性を重んじるという点で私には同じであるように見える秋吉輝雄氏のところから引用する。

 高校に入ると、従兄の福永武彦のところに足繁く通うようになりました。福永の作品もよく読んでいた。『草の花』はタイトル自体、旧約聖書あってのものですが、この本のなかに教会批判が出てくるんです。正確な引用ではないけれど、イギリスのクリスチャンは神とキングのために戦い、アメリカのクリスチャンは神とデモクラシーのため、日本人は神と天皇のために云々・・・これが頭にこびりついて離れない。のちに、僕がキリスト教とはなにか、宗教とはなにか、人間とはなにかを考える原点になったともいえるだろうと思います。
(中略)
 大畠先生に会わなければ、聖書学をやることもなかったでしょう。僕は宗教を人間の問題として考えたかった。大畠先生はなぜ人間に宗教があるのかということを歴史的に問うていた。それを見ていて、僕もこういう方法が向いていると思ったんです。ある問題が出されたときに、もともとはどうなっていたんだろうと根源から歴史的に考えるのか、いまの問題を中心に応用篇ーいわば実存的・哲学的問題意識から考えるのか。僕は理科系か文化系かという選択肢ではなく、昔を辿るほうが自分に向いていると思った。(『はじめて読む聖書』より)

大島末男=著『ティリッヒ』(清水書院の中に、「・・、ティリッヒが『史的イエスではなく、聖書のキリスト像キリスト教の基礎であり、史的イエスが存在しなくともキリスト教信仰は成立する』という趣旨の研究発表をした・・、この時すでにティリッヒの神学的立場は確立されたのである」という一節が出てくる。私自身の信仰はやはりこれに近いように思う。「史的イエスが存在しなくとも」というのはかなり思い切った言い方のように思えるが、自分自身の心の中を見てもそのように思えるのである。だから、考古学で新しい何かが発見されたというようなことは私の信仰と何ら関係がないように思える。イエスが誰かと結婚していたとか、子どもがいたようだとか、そういった発見が私の信仰に影響を与えることは全くないと思う。それと同じように、進化論が正しかろうが間違っていようが、そういったものが私の信仰を揺るがすことは全くない。むしろキリスト教徒が躍起になって進化論を覆そうとしているのを見たりすると、その熱情がどこから来るのか理解できないと思えるほどである。

私の信仰は逐語霊感説には立ってはいないと思う。けれど、信じる対象であるキリスト像は聖書が伝えるものなのだ。これはどういうことかと考えてみると、私が信じているのは聖書の一語一句ではないということなのだと思う。私が信じているのは、イエスによって表される救いの神の愛なのだと思われる。だからむしろ、「愛である神」が存在しないのではないかと思われる事柄や出来事の方に私の信仰は揺らぎやすいと言える。

「何のために子供たちまで苦しまなけりゃならないのか」などと、どんなに優しげなことを口にしたところで、「神などいない」と囁いて神から私たちを引き離そうとするのは悪魔に違いないということは充分承知しているつもりであるが、ドストエフスキーカラマーゾフの三兄弟の中では、私はやはり、次兄のイワンに最も共感する。『カラマーゾフの兄弟』がポリフォニー的だというのは良く聞くことであるが、ドストエフスキー自身の葛藤がこのイワンの中に反映されていると思う。『カラマーゾフの兄弟』の中に出てくる登場人物はすべてドストエフスキー自身であるともいえるように思う。この作品の中でドストエフスキーは自身の信仰と不信仰をあらゆる人物を通して言い表しているのだと考えられる。このように『カラマーゾフの兄弟』を見ていくと、私の信仰はドストエフスキー的であると言えるように思う。


さて、結婚して私が最も驚いたのは、夫との信仰の持ち方の違いであった。若い頃の私は信仰を非常に個人的なものとして捉えていたのだが、夫が良く口にしたのは「神の民としての信仰」ということで、信仰は共同体の中で育まれるということだった。そして最近になって聞いた話では、夫の中ではイエスが歴史上の人物だったということは信仰を持つ上で非常に大きなことだったということである。その歴史上の人物であるイエスが死んで復活したということが受洗に至る決め手だった、と聞いた。(もちろん、私にとっても、イエスが死んで復活したというのは最も重要な事柄ではあるのだが・・)
夫も私も、親兄弟や祖父母、親戚の中にキリスト教徒を持っていない。境遇としては似通っていると思うのだが、持った信仰は対極的だと思えるほどなのである。不思議なことだ。あぁ、遺伝子レベルでの違い?

河合隼雄氏が、考え方の全く違う夫婦というのは、広い川に網をかけ両岸から引っ張り合うようなものだ、と何かに書いていたと記憶している。どちらかが川の中に引きずられて溺れる可能性もあるが、そこを踏ん張って網を引き上げた後の収穫は大きい、と・・。うちは、網を引き上げた時、どれだけの収穫を手にするのだろう。楽しみだ(笑)。



また、高官たちは都の中で獲物を引き裂く狼のようだ。彼らは不正の利を得るために、血を流し、人々を殺す。(エゼキエル書22:27)
● 今、トリクルダウンしているもの
 だが、トリクルダウン説は時代錯誤である。大企業が国内にあったかつての時代ならば、中小企業も労働者も大企業の利益のおこぼれにあずかる可能性はあった。だが、・・。
 現政権下において生じているトリクルダウンは、むしろ、<己が欲望を達成するためには、平気でウソをついてよい>という風潮のトリクルダウンではなかろうか。・・。
 福島産だということで一本6円に買い叩いたキュウリを、東京で「被災地支援」と銘打って他の産地のキュウリと同じ42円値段で売って恥じない流通業者。(抜粋引用)
 
● 身体を使った映画2題(笑)。『Tokyo Tribe』と『ママはレスリング・クイーン』
ボクはこの映画で印象に残ったのはお話そのものではない。フランス北部の田舎町の暮らしの哀歓が一番心に響いた。田舎といっても本当の田舎ではなく、かっては栄えていたが徐々に衰退していく田舎町だ。商店はさびれ、町には今や大した仕事もない。・・。そこに中年〜老年の女性たちがいきなりプロレスを始める(笑)。
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こういう町おこしの話は今や先進国共通のテーマになっていることを思い知らされる。大資本の進出や政府の無策に追われ地域はどんどん衰退している。そんな中で町おこしが出来るのは『若者、よそ者、バカ者』というけれど、閉塞感を切り開くには怖れを知らない蛮勇が必要なのだろう。(抜粋引用)