風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「その一つ一つに何の意味があるのかと問われても答えることはできません」(今日の説教から)

 「聖書の言葉が実現するため」

 2023年4月2日(日) 受難週主日

聖書箇所:ヨハネによる福音書  19章17節~30節

 

(略)

 

 3.(神から託された務め)

 イエスを十字架につけた兵卒たちが、自分たちのものとなる衣服にしか興味を持ってない、その場に、イエスに従ってきた女性たちが、何もできずに、ただイエスのそばに立っていました。もちろん、十字架を負うのは、罪人を救うためのイエスの務めであり、父なる神の御心ですから、女性たちが何かをすれば、イエスが十字架を負わなくてすんだという話ではありません。彼女たちは、ただ自分たちにできる最大限のこと、つまりイエスと共にいることを果たしたのです。

 イエスは十字架のもとにたたずむ母を、愛する弟子に託します。エスは、この世にあって人として母に仕えることはできません。母に子の死を看取る悲しみさえ負わせることになります。ピエタと呼ばれる、十字架から降ろされたイエスを抱くマリヤを描いた彫刻や絵画があります。バチカンサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロピエタが有名ですが、ご存じの方も多いと思います。

 神は全能の神です。けれど、神お一人で救いの御業を完結されるのではありません。神から務めを託され、担う、神の民をお用いになります。イエスの母として選ばれたマリヤにも、名を記されていないイエスの愛する弟子にも、そしてわたしたちにも、神から託された務めがあり、託された人がいるのです。それは、神の大きな救いの御業の中にある務めです。

 マリヤは、結婚する前にイエスを身ごもりました。出産の時も、住民登録のため長旅をし、旅先でイエスを生みました。イエスが大人になってからは父ヨセフの名が福音書に出てこないことから、ヨセフは早くに死んだのではないかと考えられています。その上、息子の死を看取らねばならない。それも多くの人に憎まれ、あざけられての十字架の死です。その一つ一つに何の意味があるのかと問われても答えることはできません。しかし聖書は、神がマリヤを選びイエスの母とされ、救いの御業をなされたことを告げています。

 神の民には、神から託された務めがあり、託された人がいるのです。

 

過去の説教の全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2017/04/10/102924

 

今日、代読して下さった長老は、いつも小見出しをつけて原稿を作って下さっている。

 

ミケランジェロピエタについて語っていた説教があったとは、驚いた。記憶していなかった。

しかし、この部分は胸を打った。

 

何のためにこんな苦しい思いを味わわなければいけないのか?ということがある。

何のためかと問うても答は返ってこない。人生にはそういうことがあり、時がある、と思う。

罪は赦されている、救われていると聞かされても素直に喜べないことの方が多いのだ。

 

牧師であっても、「その一つ一つに何の意味があるのかと問われても答えることはできません」と言わざるを得ない現実というものがある。それを正直に語っている。

良い説教だと思う。

そして、そういうところを越えて、尚、「しかし聖書は、神がマリヤを選びイエスの母とされ、救いの御業をなされたことを告げて」いるのである。

 

 

 

ミケランジェロピエタ像を挿し絵に。



 

 

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