「神の国の福音を宣べ伝える」
聖書箇所:マルコによる福音書 1章35節〜39節
21節から記されているカファルナウムの会堂でのイエスの教えと癒しの評判は瞬く間に近隣の人々に広まりました。日が沈み安息日が終わると,多くの人々が病人や悪霊に取りつかれた者をイエスのもとに連れてきました。イエスは一人ひとり癒し,悪霊を追い出されました。これは夜遅くまで続いたのではないでしょうか。
けれど翌日,と言ってもユダヤでは一日は日没から日没までなのでユダヤでは翌日ではなく同じ日なのですが,朝早くまだ暗いうちに,イエスは起きて,人里離れた所へ出て行き,そこで祈っておられました。
疲れておられただろうと思います。けれど,イエスには人里離れた所へ出て行って一人で祈る時が必要でした。一人,神と向かい合う時が必要だったのです。
祈りとは,神との交わりです。神に従い,神と共に歩む上で欠かすことのできないものです。礼拝は基本的に週に1度安息日に行われていました。現代では,一人ひとりが聖書を買うことができますが,それは印刷技術が発達したここ数百年のことで,聖書は礼拝で朗読されるのを聴くものでした。ですから,毎日の信仰生活を支えるのは祈りでした。
祈りにおいて,神の民はいつでも・どこでも神と向かい合い,神との交わりに与ることができるのです。祈りは,日々の信仰生活を支える恵みの賜物なのです。一人ひとりの信仰を育む上で,祈りは礼拝と並んで中心となるものです。
日々の祈りにおいて,一人で神の前に立つことにおいて,神とわたしとの関係が確立されていくのです。
イエスは祈りの人でした。祈りによって神と結ばれ,神と共に歩まれました。
ヘブライ人への手紙の中では,おそらく十字架の前のゲツセマネの祈りを指してこう言っています。「キリストは,肉において生きておられたとき,激しい叫び声をあげ,涙を流しながら,御自分を死から救う力のある方に,祈りと願いとをささげ,その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(5:7)すべてを神に委ね,すべてにおいて神に従う救い主としてのイエスの歩みを支えたのは祈りでした。
けれど,弟子たちはまだそのような信仰を知りませんでした。シモンとその仲間はイエスの後を追い,見つけると「みんなが捜しています」とイエスに告げました。まるで,あなたを必要としている人がたくさんいます。こんな所で祈っている場合ではありません,と言わんばかりです。
けれど,イエスの答えはこうでした。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも,わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
多くの人の待つカファルナウムへは戻らないと言うのです。カファルナウムでは大勢の人が癒しを求め,悪霊追放を求めてイエスを待っていました。しかし,イエスはそこへは戻られませんでした。
自分を必要とする人がそこに大勢いて,その人たちを助ける力がイエスにはあるのに,なぜイエスは戻られなかったのでしょうか。
自分のもとに集まる人々を癒すだけであれば,サタンの誘惑に乗るのと同じ。
マルコによる福音書では詳しく述べていないが,マタイとルカの福音書ではサタンの誘惑がどんな誘惑であったか記している。石をパンに変える奇跡,天使に守られていることを見せる,サタンから世界をもらう。
パンでも癒しでも人々の必要を満たし,神の力を見せるということなら同じ。神との関係は変わらない。
イエスは宣教する。そのために出てきたと言われる。ヨハネによる福音書では「わたしは真理について証しをするために生まれ,そのためにこの世に来た。」(18:37)と言われた。
弟子たちがイエスの務め,働きについて十分理解していなかったように,わたしたちも神の国の福音を述べ伝えることの重大さを理解していないことがある。礼拝や祈りは,奉仕のための動機づけや取っ掛かりでしかなくなっていることがある。礼拝や祈りが心身共に余裕があるときにするものになっていたりする。神の国の福音を述べ伝えることの重大さ,伝道の大切さを理解していない。
神の言葉には力があり,神が今も伝道を通して救いの業をなしておられることを忘れてしまっている。
しかし,イエスは弟子たちを本来の道に連れ戻される。人はイエスを奇跡を行う者として求めるが,近づいている神の国の福音を述べ伝えるために,人々を悔い改めへと導くためにイエスは来られたのだ,ということを改めて教えられる。
パウロも「福音を告げ知らせないなら,わたしは不幸なのです。」(1コリント9:16)と言っている。わたしたちは託された務めをきちんと自覚し果たしているか。
そして,イエスはガリラヤ中の会堂に行き,宣教し,悪霊を追い出されました。
神との関係が整えられ,確立されなければ,神の民,教会の業ではない。福音が述べ伝えられ,神の国が到来する中で,癒しも奉仕もなされていく。
イエスは癒しや悪霊追放を止めてしまわれたのではない。福音が述べ伝えられ,神の国が現れる中で御業をなさる。
わたしたちは祈りの民となり,宣教に仕えなくてはならない。
救いの恵みを受け,祝福されて遣わされなくてはならない。
その時,限界ある人間の業としてではなく,限りない愛を注がれる神の御業に仕える者として遣わされ,神の国の働きに用いられていく。
「だから,憐れみを受け,恵みにあずかって,時宜にかなった助けをいただくために,大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:16)
祈りにおいてもっともっと神に近づき,福音を述べ伝えましょう。神はわたしたちと共におられ,わたしたちを通して御業をなしてくださいます。
昨日代読して頂いた説教は、段落もなく原稿が完成されていなかった。途中から「ですます体」でなくなって、自らに確認している段階の原稿である。
聴いていると、前半部分は「祈り」について語られているように思えるのだが、「祈り」という与えられた恵みによって祝福を受け宣教の業に仕えていこうと伝えようとしていることが分かる。
それで、長老は、「神の国の福音を宣べ伝える」という説教題を付けて下さったのだと思ったことだった。よくぞこの説教題を付けて下さった!
祈りにおいてもっともっと神に近づき,福音を述べ伝えましょう。神はわたしたちと共におられ,わたしたちを通して御業をなしてくださいます。
夫の説教では「伝道する」ということが常に強調されてきた。夫の頭の中には、「伝道」ということがいつもあった、と思う。それは、父母や弟に福音を伝えたいという思いの表れだったのだと、今にして思う。
「一人で神の前に立つこと」によって「神との関係が確立されていく」、それが「祈り」だと、私も思う。
讃美歌313ー3
主よ、さわがしき世のちまたに、我を忘れていそしむ間も、
ちさきみこえを聞き分けうる静けき心あたえたまえ。
長老が後半部分も所々「ですます体」にして代読して下さった原稿は以下↓から、
fruktoj-jahurto.hatenablog.com