風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

わたしに従ってきなさい(神学生による礼拝説教)

礼拝説教(マルコによる福音書8章34節ー38節より)

 今朝は、「私に従ってきなさい」という主イエスの御言葉に聞きたいと思います。34節の箇所を中心に皆さんとご一緒に御言葉に聞いてまいりたいと思います。
 この、今日お読みいたしました前の箇所におきまして、主イエスはご自身のこれからの行く道を予告なさいます。「私は苦難に会って十字架につけられ、3日目によみがえるであろう」という主イエスの予告であります。その主イエスの予告に対しまして、ペテロはどうしてそんなことをおっしゃるのですかと驚いて、主イエスを諌めはじめました。それに対して、主イエス「サタンよ、引きさがれ」と強い調子で叱責されたのであります。「お前は私の気持ちが何もわかっていない、自分のことだけを考えている、私は神のことを述べているのだ」と主イエスはお叱りになったのであります。
 その後で、主イエスは弟子だけではなく群衆を呼び寄せて言われたとあります。ここで突然に群衆が出てくるのはやや唐突な感じが致します。この「わたしに従ってきなさい」という呼びかけは、特別に選ばれた修業を受けた弟子達だけに語られたのではなく、私達すべてに対する主の呼びかけであります。主の呼びかけは、私達すべてに問われているのであります。私には関係ないと言って逃げることはできないのであります。
 主は、「わたしに従ってきなさい」とおっしゃいました。それは単に漫然と従うのではなく、二つの条件がある。一つは、自分を捨ててということ。二つ目は、自分の十字架を負って従えという条件を主イエスはつけられたのであります。
 この「自分を捨て」という所でありますけれども、自分と言いますのは私達人間がエデンの園以来、神を信頼することを離れて、自分で自分を救う者となる、神様の信頼関係から離れまして、自分を中心に世界がまわり始める、神なくして自分の考えや欲望を中心にして生きるという、そのような自己中心的な生き方をするようになってしまいました。善悪の知識を知る木の実を食べてはいけないという神の戒めを破って、自分達が神のようにすべてを支配して自分達の思うがままに生きる、そのような生き方をとり始めたのであります。主イエスは、そのような自己中心的な生き方を捨てよと呼びかけられます。それはただ、自分達の欲望を我慢して禁欲的に生きろということではありません。自分にこだわり、自分に信頼し、自分を中心として生きる、そのような生き方を捨てよとお命じになられます。
 さらに主は、自分の十字架を負いなさいとおっしゃいました。主イエスは、あのゴルゴダの丘で多くの人達に辱められ、弟子たちにも捨てられて、最も苦しい惨めな死に方をなさいました。それは私達の深い罪を償ってくださるためでした。そのような大きな十字架の業を私達がすることはできません。私達は、しかし、先ほど申し上げました自己中心的な自分を捨てて、そのような古い自分を捨てて、キリストにお従いしていくという、あえてそのような生き方をせよと主はお命じになります。そのことを主は自分の十字架を負いなさいとおっしゃっているのであります。
 主はそのふたつの条件を持って、私に従って来なさいとおっしゃいます。主イエスが予告された通り、主の道は十字架への道であります。多くの人達に辱められ、弟子にも裏切られて、その苦しみの極みで地の底にくだられるそのような道であります。そのような道にあなたがたも従って来なさいと主は仰せられるのであります。
 今を生きる私達が主に従うということは、主が聖書の中で私達に様々にお命じになった戒めや神を愛されすべての人を愛されて生きられた、神様のご命令にどこまでも従順に従われたその生き方に、主のその生き方に従って、習って生きるということであります。それは決して平たんな道ではありません。私達はできれば楽な、笑って暮らせるような楽しい人生を歩んでいきたいと自然な感情で思うのでありますけれども、しかし主はそのような道でなく、私の跡に従えとお命じになるのであります。
 弟子のペテロは、死んでも主の御跡に従ってまいりますと決意したにも関わらず、自分を捨てるどころか主イエスを捨ててしまいました。最後の土壇場で、自分の命を愛し、主イエスを捨ててしまったのであります。主イエスにお従いするということは決断を迫られることであります。決定的な一歩を踏み出すことを私達は迫られます。自分を安全地帯において、こっちがダメだったらあっちへ行こうなどという、何か保険をかけるようなそのようなものではありません。
 福音書の中には、主イエスの教えに共感して好意を持ったにも関わらず、この決定的な一歩を踏み出すことができない人達が多くおりました。同じこのマルコ福音書の中にもあります、金持ちの青年の話が出てまいります。主よ、永遠の命を得るためにはどうすればよいですかという青年の問いに対しまして、戒めを守りなさいと主はおっしゃいました。青年は、いえそれは私も守っております。その上何が必要なのでしょうかと青年は主イエスに問いました。主イエスは、すべてを捨てて私に従って来なさいというご命令をその青年になさったのでありますけれども、その金持ちの青年はすべてを捨てて従うことができなかったのであります。
 自分を捨てて従うということは、そういった物や自分の財産、その他私達が大切だと考える他の事柄を放棄するかしないかということだけではなく、自分自身の生涯をかけることができるかということであります。このように考えてまいりますと、私達の今の信仰というものがどのようなものであるかということについて、自らを吟味していく必要があるのではないでしょうか。自分のアクセサリーのような信仰や、趣味のような信仰になっていないでしょうか。自分を評論家のような立場において、何か自分に気に入らないことがあったらいつでも捨てられる、逃げ出せるというようなことがあってはならないと思います。
 しかし、この主に従い行く道は難行苦行の歯を食いしばって行くだけの苦しい道ではありません。それだけの道ではありません。この罪深い私達を憐れみたもう神が共に歩んで下さる道であります。そして、主イエスの十字架の道は私達の罪を負って死の底にくだられ、しかし三日の後に神様は主イエスを復活させて下さいました。その復活の栄光へと至る道であります。神は主イエスに従う私達に、神の国における永遠の命を送ってくれるのであります。そのような主の御跡に私達がどこまでもお従いすることができるように度ごとに祈り願ってまいりたいと思います。

祈り
ご在天の父なる神様、御名を賛美致します。ただいま、あなたの御言葉に聞くことができましたこと、心から感謝致します。私達は罪深く、あなたの前には胸を張って立てない者でありますけれども、そのような罪深い私達を赦して下さるために、その愛する御子を十字架につけてまで私達を愛して下さるという大きな御業をなして下さいました。そのことを深く覚えて、そのことに感謝して私達がどこまでも主の御跡に従って行くものとなれますように私達を支えお導き下さい。どうかこの一週間あなたが共にいて下さいまして、御言葉に従って生きることができますよう私達をお支えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン