風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

エパタ(開けよ)と言われた(神学生による礼拝説教)

礼拝説教(マルコによる福音書7章31節ー37節より)

 主イエスの前に、耳が聞こえず口のきけない人が、その知人か友人達に連れられて参りました。その人は口がきけなかったので、その癒しをその友人達に主イエスに直していただけるように願ったのであります。主イエスは各地で目の見えない人や歩けない人などを、目の見えるようにしたり歩けるようにしたりと癒しておられました。その評判を聞いて、この地に大勢の人達が集まっておりました。
 病を癒していただきたいという知人の願いがあり、群衆の前で、その耳が聞こえず口のきけない人はひとりで立たされていたのであります。しかし、主イエスはその群衆の前からその人を連れだし一対一になられます。主イエスの癒しの御業は見世物ではありませんから、主イエスは群衆から離れられたのであります。それは、その耳の聞こえない口のきけない人に対する配慮でもあったのでありましょう。主イエスは一対一でその人だけに癒しの御業をなされようとしました。
 主イエスはその人の障害を持っている部分に直接触れられます。耳の穴に指を差し入れ、主イエスの唾をその障害を持つ人の舌にのせ湿らせるという直接的な行為をなされます。
 天を仰いでため息をつきとあります。天を仰いでというのは、神様にその癒しを祈り求める行為であります。また、この「ため息をつき」というこの「ため息」という言葉でありますけれども、同じ言葉がローマ書の8章26節に同じようにあります。そこでは「ため息」という言葉ではなく、「うめき」という言葉で訳されています。少し読んでみます。「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けてくださる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」「ため息」ではなく「うめき」と表されております。これはこの耳の聞こえない口のきけない人の苦しみや悩み・呻きも、主イエスは共に担われてその癒しを神に願われたのであります。主イエスはそのご生涯において苦しみ悩みを人々と共に分かち合ってこられた方です。イザヤ書には「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」とあります。主イエスはこの苦しみ悩んでいる人と共に悩み呻き、神に向かってその癒しを祈り求められたのであります。主イエスの、悲しむ人・悩む人と共に悲しみ、苦しむ人と共に苦しむご生涯は、その極みがあのゴルゴダの十字架に結実して参ります。
 「エパタ」、主イエス「開け」とおっしゃいました。主イエスの祈りが神に届き、彼は耳が聞こえるようになり、話すことができるようになりました。主イエス「エパタ(開けよ)」と言われた時、開けたのは彼の耳と口だけだったのでしょうか。その開いた耳とあいた口で神の御言葉を聞き、神に祈りを捧げ、賛美を捧げることが、そこから彼はできたのであります。当時、今のように聖書は誰でも手に取れるようなありふれたものではありませんでした。会堂で祭司や律法学者の朗読によって、律法を教えられ御言葉に聞くということが中心でありましたので、耳が聞こえないということは神の教えから遠ざけられるということを意味していました。彼はその聞こえる耳で御言葉に聞き神様の教えに聞くことができるようになり、その自由になった口で神に賛美と祈りを捧げることができたのであります。それは神との交わりに生きることができるようになったということなのです。彼には新しい世界が、新しい人生が開けたのであります。
 ところで、この「開く」という言葉は、聖書の他の箇所にもいろいろ出てくるのでありますけれども、特に私達がここで注目したいと思いますのは、マタイとルカに出てまいります、主イエスが洗礼を受けられる場面であります。マタイによる福音書3章16-17節には次のような記述がございます。「イエスバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」古代の教会においては、洗礼式において、この主イエスのエパタという言葉と唾を儀式に使ったと言われております。洗礼との関連が強く意識されたのでありましょう。このマタイによる福音書では、天が開け、御霊がくだった、聖霊がくだって神の声がしたとあります。ここから、神の御国の門が開かれたのであります。
 子ども讃美歌の中に「主、我を愛す」という讃美歌があります。ご存じの方も多いかと思います。「主、我を愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス。わが主イエス。わが主イエス、われを愛す」という讃美歌でありますけれども、その3番に「御国の門を開きて我を招きたまえり急ぎて登らん」という歌詞があります。これは、「神様が御国の門を開いて私達を招いてくださる、だから、私達は勇気を持ってそこに登っていこうではありませんか」という意味でありましょう。
 主イエスが、「エパタ」とこの耳の聞こえない人に言われた時、彼には天の御国の門が、神の御国の門が開かれたのであります。私達ひとりひとりにも神の御国の門は開かれています。神様はその御子を十字架につけるほど、この世を愛し、私達を愛し赦されました。神様の御国の門は私達ひとりひとりに開かれています。今この時にも、その門に私達は招きいれられているのであります。
 しかし、私達には人生の途上において時には大きな困難な出来事が起こり、御言葉に素直に聞くことができず、祈りの言葉も出てこないような、そのような時が起こってまいります。しかし、神は私達を愛して下さっています。私達の祈りにならない、そのような呻きも神様は祈りにかえてくださいます。私達の頑なな心を開いて、私達の耳を開いて、御言葉に聞くことができるようにして下さいます。私達が順境にある時も、逆境にある時も、祈りの言葉が出てこない時にも、私達は主の十字架を見上げて、神に向き直って、主の御跡にどこまでも従いゆく者として下さるように度毎に祈り求めてまいりましょう。

祈り
ご在天の父なる神様、御名を賛美致します。只今はあなたの御言葉に聞くことが許され心から感謝致します。私達は時には、祈りの言葉も出ず、あなたの御言葉を素直に聞けない時もありますけれども、どうかそのような私達の耳を開き、その舌を整えて、あなたの御言葉にしっかりと聞き、あなたに祈りを捧げ、賛美することができる者とさせて下さい。今日から始まります一週間、あなたが共にいて下さいまして、私達を支えお導き下さい。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン