風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「御言葉に生きる」(マルコによる福音書4:1~20)

 「御言葉に生きる」

 

 2023年6月4日(日) 聖霊降臨節後第1主日

聖書箇所:マルコによる福音書  4章1節~20節

 

 イエスは、再びガリラヤ湖のほとりで教え始められました。イエスが教え始められると、おびただしい群衆がそばに集まって来ました。そこでイエスは大勢の人に語りかけられるように、舟に乗って腰を下ろし、湖の上から岸にいる人々に語られました。

 このとき、イエスはいろいろなたとえによって神の国のことを語られました。最初に語られたのはこういうたとえでした。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。

  大変教訓的な話のように思われます。話の内容は、人々が普段目にし、経験する事柄でよく分かる内容です。確かに同じ種でも落ちた場所が違うとそうなるよなぁ、と納得できる話です。しかし、それが一体何を指し示しているのか、イエスがこのたとえで何を語ろうとしたのかとなると、さっぱり分かりませんでした。そこでイエスがひとりになられたとき、十二弟子と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねてみました。するとイエスは「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」と言って教え始められました。つまり、この種蒔きのたとえは教えの基本なのです。これが理解できなくては、他も理解できない基本中の基本なのです。では、イエスの解き明かしを聴いてみましょう。

 

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」神の言葉を蒔く、それは神の民に与えられた第一の使命です。なぜなら「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)からです。

 イエスが天に昇られるときに弟子たちに託された務めも神の言葉を蒔くことでした。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。…あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19-20)

 だから聖書はこうも語ります。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ10:14)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(2テモテ4:2)

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)

 

 蒔くためには、種である神の言葉を受け取らなければなりません。蒔くためにはまず聴くのです。神がお語りくださる言葉を聴き、イエス キリストの言葉を聴くのです。だから、この種蒔きのたとえは「よく聞きなさい」で始まり、「聞く耳のある者は聞きなさい」で終わるのです。まずは基本中の基本であるこのたとえをじっくり聴かなくてはなりません。

 

 「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」ここで言う道とは、刈り取った後の畑を踏みつけてできた道のことで、種が蒔かれた後、耕される場所です。ユダヤでは、耕して種を蒔く場所を作るのではなく、種をばぁーっと蒔いてから全体を耕していくのです。道端に落ちた種は、芽を出すこともなく、鳥に食べられてしまいます。それは神の言葉を聴かなかったかのように、サタンがすぐに御言葉を奪い去ることだ、とイエスは言われます。これは、種が発芽する機会を与えない土地であり、神の言葉を聞いてもすぐに拒否する人です。

 例えば8章31節から33節を見てみましょう。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながらペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」

 ペトロがイエスの言葉を拒否し、イエスの歩みを阻もうとしました。それ故ペトロはイエスにサタンと呼ばれ、叱責されたのです。

 自分の側で聞きたいことがあって、それと牧師の語ることに波長が合わないので、聞き落とし、聞き捨てが起こる。自分の聞きたいことを聞こうとするのでは意味がありません。自分の好みが規準だから悔い改めも何も起こりません。悔い改めとは、神に立ち返ることです。単なる反省ではありません。反省しても神の許へと立ち返らないならば、それは悔い改めではありません。だから、自分の既に持っている考えに合わせて御言葉を聞こうとするのではなく、神が語られる御言葉によって神ご自身へと導かれていくのです。改革派教会の説教は、連続講解説教を基本的にやってきましたが、それは御言葉のより好みをしない。自分で神の言葉を選ばず、神が語られることを聴こうとしてきたからです。

 

  次にいきましょう。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」

 これは深く根を下ろすことを許さない土地。喜んで聞くが、長続きしない人。困難や迫害など外的事情が変化すると信仰が続かない人。あるいは自分の利益本位で御言葉に接する人。

 神に従うとき、艱難や迫害があることをイエスはいつも語っておられました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ5:10-12)

 「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコ13:13)

 艱難や迫害は予想外の出来事ではありません。しかし、そこにしか救いの道はありません。そして、わたしたちのためにイエス キリストご自身が艱難や迫害を受け、十字架を負ってその道を開いてくださったのです。

 

 次にいきましょう。「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」

 種が成長して実を結ぶ前に成長を止めてしまう土地。福音と一緒に対立する多くの声を聞く人。内的なあり方、心の欲、心遣い、富の惑わしなどが御言葉を塞いでしまう場合などです。

 聖書はこう言っています。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

 神に信頼し、委ねることをしないで、自分で心配しようとするとこうなってしまう。だからイエスはこう言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

 

 最後に「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

  イエス神の国の福音を聴くとき、どんな心の態度で聴き、その言葉を受け入れるか、問い掛けました。人々に対して、主の教えを注意深く、正しい態度で聴くように勧めるためでした。この意味において、まさしく種蒔きのたとえは、すべてのたとえを理解する鍵です。イエスの言葉を聴く者、神の言葉を聴く者には、これらの実を結ばない土地のようになるのを避けるように求められています。

 

 聴く者は「わたしはどんな土地であろうか」と自分自身に問うことになります。

 種そのものは同じ、次に種の蒔き方それ自体にも差はありません。どの種も「落ちた」と同じ表現です。どこに違いがあるかと言えば、落ちた種を受け止める土地です。

 空っぽの種はありません。実りに差はありますが、必ず実ります。なぜならこの種はイエス キリストそのものであり、キリストの命によって実るからです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)のです。

 

 このたとえの中で何度かでてきます「受け入れる」ということは、イエスの御言葉を「喜んで受け入れる」という意味です。ただ聞くだけでなく、実行することです。主に倣う生活をすることを意味します。

 御言葉に生きる。だから「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:21-22)聖書はこのように勧めます。

 

 このたとえは「よく聞きなさい」(3節)と始められ、「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)と締め括られています。弟子とはイエスの傍にいて、まず聴く者。神の国の真理が意味を持つように聴き続けなればなりません。

 なぜなら「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(1ペトロ1:23-25)

 

天の神さま、いまだ信仰の弱くこの世の事柄に惑わされがちなわたくしたちですが、神さまの恵みの中にあって、神さまの御言葉の語られるところに身を置いて日々を歩んで行くことのできる者とさせてください。

この整いません小さな祈りを、主イエスキリストの御名によりまして御前におささげいたします。     アーメン。

 

 

私は小学校の教員をやっていた。考えてみれば、教員というのは幼稚園から大学に至るまで、自分より目下の者を教えるのだ。

だから教員は楽だというわけではないが、しかし牧師というのは、若くて牧師になれば、自分より信仰年数も長く自分の親よりも年上の人間を相手に訓練しなければならないのである。今から思えば、大変な職業に夫は就いていたものだと思う。

このマルコによる福音書を語った頃の教会を、夫は手に余していたと思う。この説教には、苦労していた跡がありありと見えている。

 

しかし、赤で表示した部分は光っている。

そして、「御言葉に生きる」

そうだ! 私達キリスト教徒は御言葉によって生きる者達なのだ。