風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神の国」(4:26~34)

 「神の国

 

 2023年10月1日(日) 聖霊降臨節後第16主日

聖書箇所:マルコによる福音書  4章26節~34節

 

 エスは、種まきのたとえを用いて神の国についてお語りになりました。 

 マルコによる福音書エスが、救い主としての活動を始められたときの事をこの様に記しています。「イエスは神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(マルコ1;14-15)イエス様が教えられた事の中心の一つは、神の国についてでした。神の国というのは、神のご支配の事です。

 新約聖書が書かれているギリシャ語では、国という言葉は支配する、治めるという動詞から派生して出来た言葉です。ですから、神の国は神のご支配に服し、神の御言葉に従って生きる神の民が居るところに現れるのです。 

 エスは別のところでこのように語られました。「神の国は、見える形では来ない。[ここにある][あそこにある]と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。(ルカ17:20~21)神の国は、神の民を通して明らかになるのです。そして、罪の支配に服するのではなく、神のご支配に従う事により、私たちの救いが実現するのです。

 エスは大切なことが伝わるようにと、人々の聴く力に応じて、多くのたとえで御言葉を語られました。イエス様は言われます。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊な実が出来る。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時がきたからである。」神の国は神様ご自身の御業です。マルコ福音書4章28節に「ひとりでに実を結ばせる」とあるように、恵みとして神が成長させてくださるものなのです。

 だから主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。先に語られた種まく人のたとえでいわれていたように、蒔かれる種は神の言葉です。私たちは、良く実る土地となるように、種を奪われたり、根つかず枯れてしまったり、茨に育つのを邪魔されないように、御言葉を聴いて受け入れる、そのことにしっかり気をつけていたいのです。

 神様は私たち一人ひとりに、御言葉の種を蒔いてくださいます。良い土に蒔かれた種が、独りでに成長し、やがて豊かに実を結ばせるように、私たち一人ひとりを、神様の豊かな喜びの収穫としてくださいます。

 私たちは 神様のなさる救いの御業に信頼していいのです。神様は祝福を持って私たちを創造されました。私たちの命を創造された神様の言葉は、私たちを罪の支配から救い出し、神様に従い、共に生きるものへと変えてくださいます。

 先にも述べましたが、私たちは、ひたすら御言葉を聴いて受け入れる事に気をつけていればいいのです。だから、信仰が成長しないとか、進歩が無いなどと心配する必要はないのです。                               

 私たちの内に蒔かれた御言葉は、実を結ばせるまで成長し、収穫の時には神様が喜ばれる、豊かな実りとなるのです。                                    

 さらにエスは言われます、「神の国を何にたとえようか。どの様なたとえで示そうか(マルコ4:31)それは からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の影に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」と。

 ここで言われている からし種というのは、パレスチナに自生し、栽培もされている “くろがらし”の種のことです。その大きさは1ミリメートルほどで小さいものの代名詞でした。このくろがらしが成長すると、人の背丈くらいから3メートル程までになるそうです。からし種が小さいように、神の言葉が蒔かれることも、とても小さい事に思われます。聴いても忘れてしまうし、何か役に立っているのだろうかと思えることもあるかも知れません。

 神の御業は、罪人には小さくて効果がないように思えるのです。けれども神の御業は成長し、神のご支配は どんなものよりも大きくなり、そのご支配のもとに巣を作り、人々が安らうことが出来るようになります。

 エスは、人々の聴く力に応じて、多くのたとえで御言葉を語られました。たとえを用いずに語られることは有りませんでしたが、弟子たちには密かにすべてを説明なさいました。イエス様に従う者には、神の国の秘密が打ち明けられます。神の国とは、神の支配のことです。罪に支配されず、神に治められ導かれる、その事が正に神の国なのです。

 エスは救い主として活動を始められたときに このように言われました。「時は満ち神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。

 エスが御業を、お始めになったとき、時は満ち、神の国は近づいたのです。イエスキリストによって神の国は到来します。イエスキリストに従うところに神の国、神のご支配が現れます。神の国の秘密は、イエスキリストご自身であり、神の国とイエスキリストを切り離すことは出来ないのです。

 エスに従わなくても、聖書の言葉、エスの言葉を聴くこともあるでしょう、けれども、聖書の教えは、人生を豊かにする知恵や、上手に生きていくためのコツといったものではありません。聖書の言葉はイエスキリストを指し示し、イエスキリストに従う事を求めています。

 エスを信じ、エスに従う時、その言葉の深い意味を知り、その言葉がもたらす豊かな恵みを受けとることができます。

 エスは十字架へと進まれる前にこう言われました。「はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

 神の国を私たちにもたらすために、私たちを神に喜ばれる豊かな実りとするために、さらに私たちを神のご支配のもとで、安らわせるため、エスは、自らの命を捧げてくださったのです。                                       

 

 神の国、神のご支配は、イエスキリストによって私たちに、もたらされたのです。神様は私たちを、罪に支配されたままにはしておかれません。神様は、情熱の神、私たちを愛して、やまないお方です。神様の言葉は、聴いて受け入れる者の内で 実を結ばせるまで成長します。神様のご支配は、私たちに本当の平安をもたらします。そして私たち自身を神の喜びへと変えるのです。私たちを、喜びで満たすために神様は語り続け、御言葉の種を蒔き続けてくださるのです。

 

今年は、1月の総会において、新たに女性の長老が選ばれた。

昨日は、その方の初めての説教代読だった。

説教の前後を補って下さり、説教後のお祈りも良いお祈りをして下さったのだが、それらをサイトに載せられなかったので、ここにも載せることが出来ず、とても残念!

しかし元の説教では「イエス…」となっている所を、「イエス様…」と語っておられ、説教がこの方のものとなった!と思った。

女性の長老が加わって、小会の働きがまた豊かになった。

 

 

昨日は、午後から教会員の葬儀だった。

多くの方々に支えられて、見送ることが出来た。