3節の最後に「ふたたび背かぬ真実をたまえや」と歌っている。
「ふたたび背かぬ」だ等と一体どんな裏切りをしたのか?と思われるかも知れないが、中学の頃に教会に足を踏み入れて、その後教会を離れたというだけのことだ。
洗礼も受けていたわけじゃなし、背くも何も、そんな大仰に捉えなくてもいいじゃないかと思われるかも知れない。しかし罪の自覚というのは、そのようにたわいもないところで起こるものだと私は思う。
人を殺しただとか、盗みを働いただとか、そういったことがあれば罪を自覚できるかというとそうでもないだろう、と思う。
『マリアの子』で示されている第一の罪は「嘘をついた」ということではない。「約束をやぶった」という罪である。しかし、この約束をやぶったという罪は、命を失わせる罪なのである。
(略)
「いや、いかん、見てはならんというた。決して見ないと約束した」という台詞から、『見るなの花座敷』の若者にも約束をしたという自覚は一応あったようなのだが、しかし、この若者には罪の自覚が弱いようにみえる。「なんだ、これだけのことか」と若者がつぶやいたのは、座敷の中の様子を見た時点ではなく、たまごをつまみあげようとして落とし、そのたまごがぱちんと割れてしまった後なのだから。
「貴方が触れた胸に優しい傷が一つ」(梶浦由記=作詞「傷跡」より抜粋)
そんなことで、この讃美歌252番は私の胸をチクリと刺す讃美歌なのだ。
私を教会へと引き戻した讃美歌