日曜学校教師をしていた20代の頃、「大」、「小」2冊の「信仰問答(草案)」を手渡された。
「大信仰問答」は、開いて何が気に入らなかったのか、これは要らないと思って、以来一度も開くことがなかった。
「小信仰問答」は、開いて一問目の問いが心に響いて、問い一より先に読み進めることはなかったが、ずっと大事に持っていた。
近年、この信仰問答が正式に採用されて、華々しい装丁で何かわけの分からない横文字までついて刊行された。
私はほとんど興味がなかったので見ることもなかったのだが、最近になって夫が買って持っていたのを開いてみた。それで、分かった。私が「大信仰問答」の何に拒絶反応を示していたのか、が。
「大信仰問答」の問い1はこうである。
「人間は真に生きるために、何を求めるべきでしょうか」
「べき」???
「べき」という言葉を遣う時は、そこに怒りを込めなくてはいけない、と私は思う。
こんなところで、「べき」という言葉は遣うべきじゃない(怒り)!、なのだ。
この「大信仰問答」に対して「小信仰問答」では、何が良かったのか。
「あなたは、何のために、生きていますか」
これは、私の問いそのものだったのだ。ー「わたしは、いったいなんのために生きているのだろうか?」
あの頃、日曜学校誌で「ハイデルベルク信仰問答」の解説が連載されていたこともあって、そちらは割と読んでいたのだが、この「ハイデルベルク信仰問答」の問い1には全くピンと来なかった。
「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」
「う〜ん、慰め?」「しかもまだ死に直面したこともないのに、そんなこと聞かれても分からない」となった。信仰問答は私が答えるものでもないとは思うが・・。
私はカルヴァンの改革派の教会で洗礼を受けたので、そこでジュネーブ教会信仰問答を貰った記憶がある。これの問い1は、「人生のおもな目的はなんですか」だが、同じようなことを言っているようで、受ける印象が全く違ってくるというのが不思議なのだが、「あなたは、何のために、生きていますか」は、ダイレクトに心に語りかけてくるように思えた。
ところが、この「小信仰問答」の解説書などが出されて、それを見てみると、なんだか同じ物とは思われないのだった。
どういうことだろう?と思って、しばらく眺めていると、横書きで読み仮名が振られていないのだった。
「創造主である神を知り、神を愛し、神に仕えて、みさかえをあらわすためです」
すると、この「つくりぬし」が、西欧で進化した厳めしい「そうぞうしゅ」に思えて馴染めないのだ。
私は、どこかに神様はいないだろうか?神様に会いたい(「神さま あなたに会いたくなった」八木重吉)と思って、日本の田舎の小さな町の教会に行ったのだ。そこで、神を知った。
わが主よ 今ここにて 親しくまみえまつり 限りなき幸いを受くるこそ嬉しけれ。
ここにはあがないあり ここには慰めあり〜 (讃美歌205番、1,3)
まだ洗礼も受けていなかったから、聖餐には与れなかったが、この讃美歌を聞いているだけで、そこにいられるだけで良かった。
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。(イザヤ書46:4)
私は教理問答の専門家?でもないので、他にどんな教理問答があるのかよく知らないが、アメリカ合衆国長老教会の『わたしたちは神さまのものーはじめてのカテキズム』の問い1はとても良いと思える。
問い1 あなたは誰ですか。
答え わたしは神さまの子どもです。
これは、若い世代の普遍的な問いだろう、と思うからだ。
♫こ〜こはどこ?今はいつなの?わたしはだ〜れ?♬