風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

罪について、ふたたびー『ハイデルベルク信仰問答』から考える

若い頃、厭世的だった私が世の中の不条理をすっきりと受け止めることが出来たのは、ハイデルベルク信仰問答を読んだ時だった。竹森満佐一=訳『ハイデルベルク信仰問答』の解説の冒頭をちょっと引用してみる。

 信仰問答というものは、古代のアフリカ教会にはじまった、といわれる。・・。カテケーシスというのは、「ひびかせる」という動詞から出た言葉であるが、口頭で教える、という意味になり、信仰問答のように、問答によって、つまり、対話の形で、教えることを、いうようになったのである。信仰問答は、歴史的に、幾多の変化を経て来たが、宗教改革にいたって、信仰を教える、ということが強調されるようになったために、信仰問答が重要視されるようになり、その結果、ルターの小教理問答をはじめとして、多くの信仰問答が、生まれるようになったのである。ハイデルベルク信仰問答は、その代表的なものの一つである。
 しかし、信仰問答というものは、それだけで、十分な役に立つものではない。信仰問答の主要な任務は、・・。しかし、それは、洗礼を希望する者のためだけではなく、受洗後の・・。また、牧師や教師の指針としても・・。
(竹森満佐一=訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教新書)より引用)

キリスト教というと欧米の宗教と思われがちであるが、信仰問答が「古代アフリカ教会にはじまった」というのが先ず興味深い。新約聖書使徒行伝(8:27~39)にはエルサレムに礼拝に来ていたエチオピアの宦官がイエスの弟子から福音について聞き、洗礼を受け、喜びにあふれて帰って行った様子が記されている。
また、「信仰問答というものは、それだけで、十分な役に立つものではない」と書かれているように、信仰問答の後には必ずその問答の裏付けとなる聖書の言葉が引用されている。他の何よりも聖書が先立つのであり、聖書が全てなのであるが、私たち人間には聖書を正しく読むための手引きが必要だということなのだ、と思う。


さて、信仰問答の本文を引用しよう。

序 唯一の慰め
問2 それならば、あなたがこの慰めの中に、祝福されて、生きまた死ぬことができるためには、あなたは、いくつのことを、知らねばならないのですか。
答 三つのことです。第一には、わたしの罪とわたしの悲惨とが、どんなに大きいかということ、第二には、わたしが、どのようにして、わたしのあらゆる罪とわたしの一切の悲惨から、救われるか、ということ、第三には、わたしが、どんなに、この救いに対して、神に、感謝すべきか、ということであります。
(竹森満佐一=訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社)より引用)

ここを読むと、信仰を告白するためには先ず「わたしの罪とわたしの悲惨とが、どんなに大きいかということ」を知る必要があることが分かる。しかし、教会の中でも「罪」というのは忘れ去られがちになっているのではないだろうか。特に、「わたしの罪」については・・。何か議論する場合も、「わたしの罪」は脇に置いて語りがちのように思える。他人の罪は指摘するのだが・・。私の拙い私見では、キリスト教神学というのは「神の愛」と「人間の罪」を中心に据えてそこから始めるべきものであると思うのだが、どうすれば神の存在を証明できる(認知できる)かとか、神とはどういうお方であるか等について論じるあまりこの二つは脇に置かれてしまいがちになり、果ては、命をかけて神学した者の神学も簡単に否定してしまうように思えるのである。

作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。(テモテへの第一の手紙1:4~7)



以下には、私が不条理な世の中について納得させられた部分を引用する。

第一部 人間のみじめさについて
問3 何によって、あなたは、あなたのみじめなことを、みとめることができるのですか。
答 神の律法によるのです。
問4 神の律法は、われわれに、何を要求するのですか。
答 キリストは、律法の内容を、マタイによる福音書22章の中に、おまとめになりました。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法の全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22・37−40)
問5 あなたは、これらの全部を、完全に守ることができますか。
答 できません。・・・。
問6 神が人間を、そんなに悪く、さかさまなものに、お造りになったのでしょうか。
答 いいえ、神は、人間を、よいもの、つまり、まことにご自身の姿に似せて、正しい聖いものに、お造りになったのでありますから、人間は、神を、自分の造り主として正しく知り、心から愛し、神とともに永遠の祝福の中に生き、神をほめたたえるようにして下さっているのであります。
問7 どこから、人間のそのような堕落は、来たのですか。
答 われわれの第一の祖先、アダムとエバの堕罪と不従順とが、楽園で、われわれの本質を、毒してしまいましたので、われわれは、みな、罪のうちにはらまれ、生まれるのであります。
(竹森満佐一=訳『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社)より引用)

問7の後には「ローマ人への手紙5章12節」の聖書の言葉が引用されている。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた・・」(ローマ人への手紙5:12)

若い頃、私はここを読んで納得したのだった。私たち人間は罪に堕ちたのだ、と。罪から死が入り込み、そこから死や病やあらゆる悲惨がこの世に入り込んだのだ、と。けれど私たちは罪に堕ちたということを脇に押しやって、悲惨ばかりを見て嘆いている。病や死さえ、どうにかなるものと思い込み、どうにかしようとし、ある時は「どうにかしてくれ!」とどうにも出来ない者に向かって声高に叫び、挙げ句の果てに、「お前はどうにもしてくれなかった」と言って責めたてる。この状態は全く悲惨としか言いようがない。

けれど、厭世的な私がこんな信仰問答を読んで、ますます厭世的になったかというとそうではない。聖書はここで終わらないからだ。私たち人間は、「罪」を、知らなければならない。けれど、「罪」を知って終わるのではないのだ。しかし問2の答にあるように、「罪」を知らなければ、「どんなに、この救いに対して、神に、感謝すべきか」を理解することはできない、のだと思う。


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散る桜と小保方さん記者会見について
STAP現象は何度も確認された真実です。私はSTAP現象に出会って以降、この現象を発表する使命感とともに、毎日実験に取り組んでまいりました。そして、この現象のメカニズムが詳しく理解され、いつか多くの人に役立つ技術にまで発展させていける日を夢見てきました。どうかSTAP現象が論文の体裁上の間違いで否定されるのではなく、科学的な実証・反証を経て、研究が進むことを何よりも望んでおります。(小保方さん会見コメント文より抜粋)
冷静で他人の所為にしない立派な受け答えだったと思います。STAP細胞は必ずその存在が証明されると信じている科学者の自信が彼女の今を支えているのでしょう。証明されるその日が、そして小保方さんの願い(STAP細胞が役に立つ日が来るよう研究を続けたい)が叶う日が早く来ると良いな〜と思います。(CAN蛙さんブログ記事より抜粋)