風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「ルツの決断」(ルツ記1:7〜19)

以下に昨日の礼拝のお説教を抜粋で掲載させて頂きます。

「ルツの決断」(ルツ記1:7〜19)

 この記事は、昔、家族制度が厳しかった頃、嫁としゅうとの模範的実例として取り上げられることが多かった。しかし、この記事は道徳を教えているのではない。嫁はしゅうとめに従順に仕えるべきだと言っているのではない。誰もが聴かなければならないこと、すなわち入信するとはどういうことかを語っているのである。それをルツの言葉から聴き取りたい。

 

Ⅰ ナオミ一家との生活

 16~17節は、素朴であるがルツの信仰告白である。入信するには、何を信じているか告白することが求められるが、間違いなくそれをしている。

 彼女は、信仰を言い表すに至るまで何を経験し、何を学んで来たのだろうか。聖書には何も記されていないので推測する以外にない。恐らく、ナオミ一家との生活の中で学び、教えられたことが多かったであろう。自分の育ってきたモアブでの生活と神の民であるイスラエル人一家の生活に何らかの違いを見て取ったに相違ない。今で言えば、教会と一般社会すなわちこの世との違いであろう。神に感謝し、讃美して生きる世界とご利益を求めて生きる世界の違いである。ルツは、ナオミから自分たちイスラエルはどうして神の民とされたか、それはまったく神の一方的な愛と恵みの選びによってであることを教えられたであろう。だから決して誇ることはできないと聞かされていたに違いない。申命記7:6〜8に記されていることである。

 

Ⅱ 確かな信仰告白

 ルツは、信仰を言い表しているけれども、信じて生きるということがどういうことか分かっていたのだろうかと疑う人があるかもしれない。つまり、この世の人々がそうであるように、信じたら幸福な生活ができると思っていたのではないかという懸念がある。決してそのようなことはない。彼女は、信仰者ナオミの人生を知っているからである。ナオミは恵みの神を信じていたけれども夫に先立たれ、頼みとしていた二人の息子も失うのを実際に見ているからである。ナオミは、ユダに行っても決して生活はバラ色でないことをはっきり言い聞かせている。兄嫁のオルパは、ナオミとの生活に見切りをつけて故国に戻っている。いわゆる幸せだけを求めるのであれば、兄嫁オルパのように故国に帰った方が賢明であった。しかし、ルツはそれでも信仰を持ち続けた。彼女の信仰はいいかげんなものでない。主イエスは弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため命を失う者はそれを得る」と。

 

Ⅲ 神の民の一員となる

 ルツの信仰告白は、イスラエルの神を信じるということがどういうことであるかよく理解していたことを示す。それが、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言い表しである。

 ある人は、これを多神教の一つ拝一神教に過ぎないと言う。それぞれの民族にはそれぞれの神を認める宗教である。しかし、わたしはそう言ってこの信仰告白を否定してしまうことはできないと思う。重要なことが言い表されているからである。イスラエルの神すなわち恵みによってイスラエルを選び、ご自分の民とされた方を信じるということは、神の民イスラエルを自分の民にすること、自分がその一員になることだと言っているからである。これは、今のわたしたちが真の神であるイエス・キリストを信じてその救いに与るということは、新しい神の民である教会の一員になることだからである。信仰を持つということと教会に加わることとを分離しない。一つのこととする。使徒パウロが、教会はキリストの体であり、わたしたちはその手足であると言っていることである。主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われ、「わたしにつながっていなさい」とおっしゃった。昔からイスラエルの民がぶどうの木に喩えられてきたことを考えると主イエス・キリストの地上のみ体である教会につながっていなさいと言っておられるのである。

 ルツの信仰告白には、更に重要なことが言われている。彼女にとって神の民の一員になるということは、具体的にナオミの嫁に留まることであった。神の民の一員になるということは、観念的なことでなくイスラエル人の家族の一人となることであった。これは、今のわたしたちにとって、具体的な地上の一教会に属することである。真の唯一の教会の一員になるということは、○○教会の一員となることである。くどいようであるが、見えざる唯一のキリスト教会に属するには、見える地上の教会、わたしたちにとって○○教会に属すること以外ありえない。わたしたちは、リンゴを食べようとしたら「ふじ」とか「紅玉」とか「国光」とかを食べる以外にありえない。教会もまったく同じである。昔、キプリアヌスという神学者は「教会の外に救いはない」、「教会を母として持たない者は神を父として持つことはできない」と言っている。

 ルツにとって、ナオミのすべてが気に入っているわけではない。いやな部分もあったであろう。それでも、彼女にとって嫁である以外、神の民の一員であり続けることはできない。地上の教会も同じである。いろいろ気になるところは必ずある。それでもこの教会が教会としての大切なものを持っている限り、教会の一員であり続けるのである。使徒パウロは、当時問題の多い教会であったコリントの群れを「コリントにある神の教会」と呼んでいる。

 

 

myrtus77.hatenablog.com

八木誠一の『キリストとイエス』の中でティリッヒの「神は存在の究極の根柢である」という言葉と出会った時、私はこれで教会に留まることが出来ると思った。

しかし考えると不思議なのだが、「神が存在の根底に居てくださるのなら、べつに教会にいなくても、どこにいても良いのではないか」、「そう考えて、教会を去るという選択をどうしてしなかったのか」、ということなのだ。私は昔から組織というものに馴染まないところがあった。それなら尚のこと、教会を離れれば良かったのではないか、と思うのだ。

最近になって、また、これはどういうことだろうと考えていた。そうして思った。

ティリッヒの生涯をかけた神学の言葉が私を教会に引き留めたのだ、と。

ティリッヒの「神を指し示す言葉」が私を教会に留めたのだ、と。

教会というのも煩わしいところだ。依然として私たちは罪の中に生きているのだから。しかし、

(略)

そうなのだ、キリストは、生きるのが煩わしいと思える罪の世に来て下さったのだ。

そしてキリストの体である教会のただ中にあって、私たちを支えていてくださるのだ。

教会とは、神がこの世に来て下さったということを顕し続ける場所なのだ。

 

神は、われわれのまっただ中に、非常に腐敗し・呪われ・頽廃した場所に、われわれの地上生活のもっとも遠いすべての隅々に、しかり、われわれの墓場にさえも、いるのである。(ロマドカ=著『昨日と明日の間の神学』より)

 

 

 

開きそうだったので、ヒオウギを足した。