「祈りによって、神とともに歩む」
2021年6月27日(日) 主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 20章45節〜47節(略)
イエスは「律法学者に気をつけなさい」と言って、キリストを宣べ伝える弟子たちのあり方、心構えを語られました。
第一は、(略)
第二は、(略)
第三には「やもめの家を食い物にし」とあります。聖書にある律法学者というのは、神が定めた法律の専門家という意味です。律法と訳されるギリシャ語「ノモス」は、聖書以外では普通「法律」と訳されます。ですから、律法学者というのはユダヤにおいては法律の専門家です。夫を亡くした未亡人である「やもめ」が財産の管理などを律法学者に依頼します。今日であれば、弁護士や司法書士などの法律の専門家に法律に関わる仕事をお願いするのと同じです。
旧約を読むと分かりますが、神はやもめがちゃんと暮らしていけるように、配慮しておられます。例えば、申命記10章18節では「孤児と寡婦(やもめ)の権利を守」るように命じられています。またエレミヤ書49章11節では「あなたのみなしごを置いて行け わたしが育てる。あなたのやもめらをわたしにゆだねよ」と言われています。神がこのようにやもめを心にかけておられるのを律法学者は当然知っています。それなのに、自分を満たすために律法を利用して奪い取ってはならないのです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/06/27/193044)
昨日読み上げて頂いた過去の説教を聴いていて、私は今、神によって守られているということを身をもって体験させられているのだ、と思った。
夫はまだ生きているので私は寡婦ではないが、夫が倒れた後、私たちの生活は教会によって守られ支えられている。教会という神の共同体がなければ、今頃どうなっていただろう、と思わされる。
ところで、ここで引用されているエレミヤ書の言葉は、「米津玄師『カイト』と「逃げよ!」」で取り上げたエレミヤ書49章8節に続く言葉である。
夫がこの箇所を語った時は口語訳聖書に基づいて語っているが、新共同訳では訳が随分と違っている。というより逆転しているようにさえ思われる。
あなたのみなしごを残せ、わたしがそれを生きながらえさせる。あなたのやもめには、わたしに寄り頼ませよ」。(エレミヤ書49:11 口語訳)
「あなたのみなしごを置いて行け わたしが育てる。あなたのやもめらをわたしにゆだねよ」と言う者はない。(エレミヤ書49:11 新共同訳)
あなたのみなしごを置いて行け 私が育てる。あなたのやもめは私に信頼するがよい。(エレミヤ書49:11 聖書協会共同訳)
聖書協会共同訳では、口語訳の解釈へと戻っている感じである。
フランシスコ会訳は新共同訳と同じようである。
『あなたの孤児たちをわたしに任せなさい。
わたしが生かしてやろう。
あなたのやもめたちはわたしに寄り頼むがよい』
と言う者はいない。(フランシスコ会聖書研究所 訳注)
フランシスコ会訳のここの部分には、「本節の話者はしばしば主と解されるが、隣人を話者として想定したものと解するほうがよい」と注釈がついている。
しかし私は、そうだろうか?と思う。
「イスラエルの残りの者」ということがイザヤ書には顕著に言われている。
もし万軍の主が、私たちのために残りの者を少しも残さなかったなら 私たちはソドムのようになり ゴモラと同じようになったであろう。(イザヤ書1:9 聖書協会共同訳)
主は人を遠くに移し見捨てられた所がその地に増える。 その中の十分の一は残るが これも荒れるに任せられる。切り倒されても切り株が残る テレビンの木や樫の木のように聖なる子孫が切り株となって残る。(イザヤ書6:12,13)
エッサイの株から一つの芽が萌え出で その根から若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。
その日になると主は再びその手を伸ばし 自分の民の残りの者を買い戻される。それは、アッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの島々に残されていた者。(イザヤ書11:1,2,11 聖書協会共同訳)
「米津玄師『カイト』と「逃げよ!」」でも言及したが、「モアブにしてもデダンにしてもキリストの系譜の中に位置づけられている」のである。
ナオミがモアブの野から来た嫁、モアブの女ルツと一緒に帰り、ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まった頃であった。(ルツ記1:22 聖書協会共同訳)
近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名を付け、オベドと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。(ルツ記4:17 聖書協会共同訳)