風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子13

十字架を組みたる材はなにならむ荒れたる丘の樫のたぐひか『原牛』

『葛原妙子全歌集』(砂子屋書房)の中にこの短歌を見つけた時、私は、妙子が「樫」というのをどういうところから発想したのだろうと考えた。そこで聖書の中で樫の木がどのように記されているのかを調べた。そして、イザヤ書に出てくるものを見つけた。

お前たちは葉のしおれた樫の木のように 水の涸れた園のようになる。(イザヤ書1:30)
彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。(イザヤ書61:3)

イザヤ書1章の言葉は、明らかに目にしていただろうと思われる。「荒れたる丘の樫」を、妙子はこのイザヤ書1章から発想したに違いないと思う。

1章で言われている「園」は、「シオンの丘」とも呼ばれるエルサレムの丘を指していると思われる。そしてこの「シオン」という言葉は神の選びの民を表す言葉でもある。「樫」と「園」はどちらも神によって選ばれた民を象徴しており、ここでは、その神に選ばれた民が「葉のしおれた樫」、「水の涸れた園」のようになると言われているのだ。神によって選ばれた民は神に背いた民でもあった。

もし、万軍の主がわたしたちのために わずかでも生存者を残されなかったなら わたしたちはソドムのようになり ゴモラに似たものとなっていたであろう。(イザヤ書1:9)

妙子が「罪」を自分に引きつけて捉えていたとすれば、神に背いた民を描いたこの1章の言葉は、妙子を「十字架を組んだ材は何だったろう」という想念へと容易に導いていったであろうと思われる。神に背いた民は、又、キリストを十字架につけた民でもあった。


1章と61章で比喩されている樫の木のイメージには大きな隔たりがある。そこで、61章の言葉に移る前に、もう1箇所イザヤ書の言葉を取り上げたい。

主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一が残るが それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である(イザヤ6:12、13)

ここにも樫の木が出てくる。葉がしおれた樫の木はここでは切り倒されている。しかし、切り倒された後に大きな転換が起こってくる、その萌芽が示されている。切り株が残り、切り株は「聖なる種子」だと言われているのだ。この「聖なる種子」は、ここからキリストが生まれ出ることを示していると思われる。1章で神に背いた神の選びの民の象徴とされていた樫の木は、ここではキリストが現れ出る切り株となっている。キリストも、選びの民の家系から出たユダヤ人なのである。

1章と61章の間にこの6章の言葉を入れると、隔たりのある1章と61章が鮮やかにつながっていくように思われる。

神に背き「葉のしおれた樫」となっていた民は切り倒され、切り株となる。しかし、その切り株からキリストが生まれ出る。そして、そのキリストは、十字架につくことによって民を罪から救い出すお方なのだ。十字架につくことで民を救い出すのであるなら、「主が輝きを現す」のは十字架上に他ならない。「主が輝きを現すために植えられた」とは、「キリストが十字架につく時のために神によって選ばれた」という意味ではないか。こうして、神によって選ばれ、神に背き、葉がしおれ、切り倒された民は、切り株から生まれ出るキリストの故に、「正義の樫の木」と呼ばれる者となるのである。

私は聖書のこの部分を以上のように解釈した。そして、葛原妙子が61章の「樫の木」を目にしてこの短歌を発想したとすれば、妙子は十字架上に自分の罪の赦しを見ていたのではないかと思って、色々調べてきたのだった。ところが、最後に文語訳聖書を調べたところ、「樫の木」は「義の樹」と訳されていた。歌集『葡萄木立』の後書き等で妙子が引用している聖書の言葉が文語訳聖書のものなので、妙子が読んでいたのは文語訳聖書ではないかと思う。口語訳では「かしの木」と訳されているが、妙子が口語訳聖書を読んでいたという確証が残念ながらないので、これまでの私の推論は、葛原妙子の他の短歌の検討をもう少し重ねてからでなければ展開することができないようだ。