風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「すべてが実現したとき、お前たちは、わたしが主なる神であることを知るようになる」

わたしが彼らから、その砦、栄光の喜び、目の喜び、心の望みであるもの、息子、娘たちを取り去る日、・・わたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル書24:25~27)

こちらに帰って来たとき、あまりの寂れように驚いた。

帰って来て、母の家の近所にあった運送会社に行くと、会社はなくなり住んでいる人も変わっていた。それから半年程後に思いがけず運送会社の長男に出会って、会社を潰してしまったと聞いた。今年に入って、そのご両親にうちの近くですれ違った。運送業をされていた頃のお元気そうな様子は全くなくなり、とぼとぼと歩いておられた。そして昨日も、買い物途中にうちの前を通られたので、「大変だったんですね」と声をかけた。立ち話で話を聞いていて、この5年の間に、そのご長男が会社を潰したことを苦にして自殺しておられたことを知った。「死んだ者のことは忘れるしかない」と・・。「思い出させてごめんね」と言いながら、忘れているはずがないと思った。

故郷が寂れていく、古くからの知人が不幸な境遇に苦しんでいる、そんな姿を見るのは堪らない。悲しくて遣り切れない。私は、見たくもないものを見させられるために帰って来たのだろうか、と思う。

けれど神は、見なさいと言われる。「わたしが主であることを知るために、わたしが為す全てのことを見なさい」と。見なければならないのだと思う。

主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一が残るがそれも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。(イザヤ書6:12,13)