わが神、主よ、私は御もとに逃れました。(詩編7:2 聖書協会共同訳)
幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。(詩編2:12 聖書協会共同訳)
米津玄師の「カイト」という歌に<父は言った「逃げていい」と>という一節があって、この歌を初めて聞いた時に、この言葉に摑まれた。
長年、「逃げる」ということを肯定的に受け止める根拠を聖書に見出そうとしてきた。
わが子よ、あなたがもし隣り人のために保証人となり、他人のために手をうって誓ったならば、もしあなたのくちびるの言葉によって、わなにかかり、あなたの口の言葉によって捕えられたならば、わが子よ、その時はこうして、おのれを救え、…かもしかが、かりゅうどの手からのがれるように、鳥が鳥を取る者の手からのがれるように、おのれを救え。(箴言6:1~3,5 口語訳)
グリム童話の『千枚皮』は、千枚の獣の皮を着て、亡くなったお妃と同じ美しさを持つ自分を妻にしようとする実父から森の中へと逃れる王女の物語である。
エレミヤ書のこの御言葉は、「自分の業と宝に頼ったので あなたもまた占領される」(エレミヤ書48:7)と続くので、グリム童話のハッピーエンドとは相容れないが・・。
しかしエレミヤ書では、「逃げよ」という言葉は他国人にも発せられる。
デダンの住民たちよ 逃げよ、退け、深く潜んでいよ。(エレミヤ書49:8 聖書協会共同訳)
デダンというのは「ノアの子孫およびアブラハムの子孫と言われている。アラビアの交易を主とする部族である。エレミヤはその滅亡を預言した」(新共同訳聖書聖書辞典)と記されていて、結局のところ滅ぼされるのかと思うが、モアブにしてもデダンにしてもキリストの系譜の中に位置づけられていると思うし、何か、そこから福音が拡がっていくような気配も感じる。
ナオミがモアブの野から来た嫁、モアブの女ルツと一緒に帰り、ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まった頃であった。(ルツ記1:22)
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で愛されています。神の賜物と招きは取り消されることがないからです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は、彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼らもやがて憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。(ローマの信徒への手紙11:28~32)
以下は、米津様の新しいMV 『死神』
以下は、「逃がす!」
魚の気持ちを汲み取り川に逃がすワンコpic.twitter.com/o1kXQfcXSF
— 最多情報局 (@tyomateee) 2021年6月22日