この春頃までは、「米津玄師」という名前を知らなかった。
昨年の夏、娘がよく『海の幽霊』を歌っていて、今年梅雨前に夏のように暑い日が続いた時、思わずその歌が口をついて出た。「開け放たれたこの部屋には誰もいない 潮風の匂い滲みついた椅子がひとつ」。
その前だったか後だったかは忘れたのだが、うちで米津玄師の名前が出たことがあった。ある教会の奏楽者が礼拝の始まりで米津の「Lemon」を弾いたというのだ。牧師が何も言わないでいると、その人は礼拝の前奏にポピュラーソングを色々入れ始めたということだった。それで、「Lemon」ってどういう曲?ということで聞かせてもらったのだった。
最後の歌詞がまるで聖書みたいだと思った。「今でもあなたはわたしの光」。
主はとこしえにあなたの光(イザヤ書60:19)
この御言葉は、かつての教会の今は亡き長老に送った言葉だった。「一筆箋を開いた瞬間、光が射し込んできた気がした」と返信を頂いた。だから鮮明に記憶していたのだ。
アルバムの歌詞に注目して見ていると、こんな言葉も目に留まった。
「千年後の未来には 僕らは生きていない
友達よいつの日も 愛してるよ きっと」(『迷える羊』)
友はどのような時でも愛してくれる。兄弟は苦難の時のために生まれる。(箴言17:17 聖書協会共同訳)
アルバムの中から『優しい人』の最後の一節を以下に抜粋引用する。
強く叩いて「悪い子だ」って叱って
あの子と違う私を治して
あなたみたいに優しく
生きられたならよかったな
優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに
「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」(ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮文庫)訳者、江川卓「あとがき」より)
愛せないというのはどんなに苦しいことかと思う。
それゆえ憧れて止まないのだ。
この歌は米津玄師の歌であるとともに私の歌でもある。