風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子19

「葛原妙子7」で、私は、「葛原妙子の家庭環境について検証するつもりはない」と書いたのであるが、ここにきて、生い立ちについて触れずにはおれなくなってきた。生い立ちというのは、自己というものが拠って立つ場に大きく影響を与えているであろうから。

『橙黄』には父のことが詠われている。

抱かれし記憶一つなし名聞(みやうもん)の著き醫師(くすし)にて在しき君は『橙黄』
倚らしめむ一樹だになし火葬場の白日に骨を抱きて立てり
すでにして父母(ちちはは)いまさぬ時としる夜あけは秋と紛ふ空の色

数年後に自ら編集し直した異本『橙黄』には母のことが詠われている。

われを育てたまはざりにし未知の母未知なるままに死にたまひしと 異本『橙黄』
抱かれし記憶なき母死にたまひわが肩にしも觸るることなし

さらに第六歌集『葡萄木立』には次のような短歌が連なっている。

寄りあひて赤兒を抱(いだ)く手あるのみうつしゑにふた親のかほかすれたり
一瞬のわれを見いづる父なく母なく子なく銀の如きを

古い写真を見つけたのだろうか。両親によって抱かれている赤ん坊の頃の自分の写真だろうか。しかし、寄りあって赤ん坊を抱いているふた親の顔はかすれて判然としない。まるで寄りあった手が離れて抱かれていた赤ん坊が地に落ちてしまうのではないか、そんな不穏な予感がこの短歌から立ち上がって来るようだ。
幼い頃の自分とは、どのように規定されるだろうか。「○○さんちの子ども」ではないだろうか。この赤ん坊は、どこの赤ん坊なのだろう。そして、いったい自分は誰なのだろう・・?

続く歌は、一首目の歌に詠まれた写真を目にした後に生まれてきたのだろうか。この写真を見た瞬間、自分を見いだしたのだろうか。銀の如き自分を。
同じ鉱物でも、黄金(きん)なら太陽をイメージして生命感にあふれているような印象を受けるだろう。けれど、銀の如きなのだ。命を持たない無機物。しかし人知れずキラキラと煌めいている。「私はここに居ます」と言うように煌めいているが、誰からも顧みられない寄る辺ない存在。銀の如き自分を。
「一瞬のわれ」であるから、儚さが一層際立つ。

私の両親も私が生まれて一年足らずで別れている。今では離婚など珍しくもなく、そのような家庭で育つ人もいくらもいるだろうが、若い頃の私は、自分は愛情の破綻した家に生まれたのだから特殊で、他のごく一般の人々は愛を基盤として生きているのだろうか?と良く考えたものだった。
仲の良い両親の間に生まれ育った人は愛情というものを基盤にして、そこに信頼をおいて生きていけるのだろうか?又、喧嘩をしたりしてもごく普通の両親を目の前にして育てば、人間というのはこんなものだといつの間にか理解してそれなりに人生を生きていくのだろうか?いずれにしてもそういった家庭に生まれ育たなかったので実際はどうなのかは私には分からないのだが、欠けを持ちながら共に生きて行く両親を目の前にして育たなかった私は、どこかに理想的な家庭というものがあるのだろうかと思い、本当のところはどうなのだろうと思いながら生きていたように思う。

そのような私が、キリスト教の洗礼を受けてから後にハイデルベルク信仰問答に初めて触れた時、全てのことがすっと納得できたと思ったのだった。少し長いが引用してみたい。

第一部 人間のみじめさについて
問3 何によって、あなたは、あなたのみじめなことを、みとめることができるのですか。
答  神の律法によるのです。
問4 神の律法は、われわれに、何を要求するのですか。
答  キリストは、律法の内容を、マタイによる福音書22章の中に、おまとめになりました。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法の全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22・37−40)
問5 あなたは、これらの全部を、完全に守ることができますか。
答  できません。・・・。
・・・。
問7 どこから、人間のそのような堕落は、来たのですか。
答  われわれの第一の祖先、アダムとエバの堕罪と不従順とが、楽園で、われわれの本質を、毒してしまいましたので、われわれは、みな、罪のうちにはらまれ、生まれるのであります。
           (『ハイデルベルク信仰問答』竹森満佐一=訳(新教出版社)より引用)

この信仰問答を読んだ時、私の家庭だけが特殊なのではなかったのだと思った。そして、不条理に満ちたこの世の中の状態が初めて理解できたと思ったのだった。
聖書の言葉を思い浮かべる。
「お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ」(ホセア書6:4)
幼少時に、自己の存在の根拠となる肉親を欠いた状態で育った妙子も、肉親の愛情というものの上に自己の存在の根拠を見いだすことは出来なかっただろう。それ故、肉親の愛情、そして肉親への愛情を、大人になってからも絶対的なものとして捉えることは出来なかっただろうと思う。そしてやはりキリスト教を知り、聖書を目にした妙子も分かってしまったのだろうと思う、「罪に堕ちたこの世の中に本当の愛は存在しないのだ」ということを。たとえ親子の間であっても。

禁斷の木の實をもぎしをとめありしらしら藭の世の記憶にて『橙黄』
イヴといふをとめのありしことすらや記憶にうすれゆくこのごろか

藭の世=神の世