にもかかわらず、傷跡だけはそのまま残された。なぜ、傷跡だけは残されなければならなかったのか。イエス・キリストこそ、罪を繰り返すわたしたちの永遠の祭司だからである。決して消えることのない傷跡こそ執り成しの力なのである。
貴方が触れた胸に優しい傷が一つ
隠していた涙が紅に零れ落ちて
冷たい肌の上にやっと灯した花びら
私がここにいる さいわいを歌うよ
(梶浦由記=作詞「傷跡」より抜粋)
この「傷跡」という作品は劇場版アニメ「空の境界」第三章の主題歌として作られたもののようなのだが、梶浦由記さんの書かれるものは、他の作品でもキリストを歌っていると思われるものが多くある。梶浦さんご自身は無宗教の方らしいが・・?
上に掲載した9月24日の礼拝説教をお聴きして、「あぁ、やはりそうだ」と思ったのだった。私は勝手に思い込む質なので・・(笑)。
私たちは、キリストの傷跡に触れて自分の罪を知るのだ。
それは、あたかもキリストが私の胸に傷をつけたかのような出来事なのだ。
しかしキリストの傷跡に触れて、キリストの愛を知って、そこからほんとうに生き始めるのだ。
以下は夫への手紙から。
ある日、イェスさまにきいてみたんだ、「どれくらい僕を愛してるの?これくらいかな?これくらいかな?」イェスさまは黙ってほほえんでる。
もぅ一度、イェスさまにきいてみたんだ、「どれくらい僕を愛してるの?これくらいかな?これくらいかな?」イェスさまは黙ってほほえんでる。
ある日、イェスさまはこたえてくれた。静かに両手をひろげて。
そのてのひらに釘を打たれて十字架にかかってくださった。
それは僕の罪のため。ごめんね、ありがとう、イェスさま。
(「両手いっぱいの愛」より)