風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「その子をわたしの所に連れてきなさい」(マルコによる福音書9章19節)

今年伝道礼拝に来てくださった先生は合気道の修養をなさっておられる方でした。そのためか、声の抑揚や間のとり方等、隅々まで神経が行き届いていてとても聴きやすく、本当なら録音した声を皆様にも聴いていただきたいと思ったほどですが、敵いませんので、以下に説教全文と祈りを掲載致します。長いものですが、皆様、是非お読みくださいますように・・。


マルコによる福音書9章14〜29節

 今日の御言の前のところには、主が12弟子の中でペテロ、ヤコブヨハネという3人の弟子だけを連れて「高い山」に登られたこと、その山の上で主イエスの姿が変わり、栄光に光り輝いたという話が記されています。しかもそこに、旧約を代表するエリヤとモーセまで現れて、主イエスと語り合ったというのです。それはとても素晴らしい光景で、ペテロは思わず「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」、こう口走ってしまったほどでした。きっとペテロの心の中には“いつまでも、この栄光の中にとどまっていたい”という思いがあったのでしょう。
 でも主イエスは、その栄光の〈光〉の中にとどまることなく、山を下りて来られました。苦しみ・悩みの〈闇〉に満ちた私たちの現実の只中へと、下りて来てくださったのです。

 やがて主イエスの一行は残されたほかの弟子たちのところまで来ましたが、どういうわけか彼らは大勢の群衆に取り囲まれていて、律法学者たちと激しく「論じ合っていた」のです。いったい、どうしたのでしょうか。
 群衆は、すぐに主イエスがおられることに気づき、駆け寄って来て挨拶しました。その人たちに主が“あなたがたは、私の弟子たちと何を議論しているのか”とお尋ねになると、群衆の中の一人が言いました。「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。」おそらく、今で言う〈てんかん〉のような病気でこの子は苦しんでいたのでしょう。当時、このような病は汚れた霊・悪霊の働きによるものと考えられていました。
 父親はその子の様子を説明した後で、「それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」と続けます。“せっかく癒しの奇跡を行う方として名の知れ渡ったあなた様の、そのお弟子たちに期待し、望みを託したのに、裏切られてしまいました”という失望と批判がこもった言葉です。それを聞いて主イエスも言われます。「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。」

 かつて主イエスは弟子たちの内から12人を選び出されました。それは彼らを「宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるため」でした。それなのに今、彼らはその務めを果たさなかったのです。だから、そこに集まっていた群衆は彼らを、見かけ倒しの嘘つきだと批判し、批難したのです。弟子たちの側にも、それなりの言い分があったことでしょう。何より、これまでずっと頼りにしてきた先生が、一緒におられないのです。彼らは自分たちの力の限界を感じて、手も足も出せなかったのです。
 でも、彼らが主イエスから託された使命を果さなかったという事実は弁解の余地がありません。しかも彼らは、この悪霊に苦しめられている子どものために、最後まで手を尽くそうとはしないで、“なぜ自分たちは癒すことができないのか”という理由について、また人間の限界について「議論」をし続けているのです。
 そんな弟子たちに向かって、主イエスは言われます。「ああ、なんという不信仰な時代であろう」。このような病気で苦しむ人がいたら、癒すことができるようにと力を与えたはずの弟子たちの、その「不信仰」を嘆き、悲しまれます。主イエスは、これから十字架にかけられ、殺されます。ですから、弟子たちといつまでも一緒にいるわけにはいきません。主イエスがもはや彼らと共におられない時が、やがて必ず来るのです。ところが弟子たちは、あれだけ主イエスが“自分の力ではなく、神様の愛と力に信頼し、依り頼みなさい”と繰り返し教えてくださったにもかかわらず、自分の力でなんとかしようとして今、焦っているのです。そのことを、主は「ああ、なんという不信仰な時代であろう」と言って、嘆かれました。
 しかし、ここで主はただ弟子たちのことだけを嘆いておられるのではありません。もしそうであるならば、“あなたがたは、なんと不信仰なのか”と言われたでしょう。でも主は「なんという不信仰な時代であろう」とおっしゃった。主イエスが今、嘆いておられるのは「不信仰な時代」であり、すべての人の生き方です。信仰とは、ひと言で言うならば、神様に向かって生きること、神に本当に依り頼んで生きることです。でもどうでしょうか。“今の時代の中で、本当に神様に信頼して歩んでいる者が一人でもいるだろうか。一人もいない”と主は言われるのです。〈自分〉を頑なに保ったままで、その〈自分〉のほうへと神を引き寄せようとする人ならばたくさんいるけれども、本当に神様へと身を投げ出して生きる人は、一人もいない。
 そう考えるならば、私たちの生きているこの21世紀の現代もまた、主イエスの時代となんにも変わらない「不信仰な時代」なのではないでしょうか。詩篇53篇において、詩人はこう語っています。「神は天から人の子を見下ろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない」。いつの時代も「不信仰な時代」であり、私たちは神様に背を向けて生きる、まさに「不信仰」な者たちなのです。
 しかし主は、この「不信仰な時代」の中に、ただ一人の〈信仰の人〉として立っておられます。弟子たちも含めた世界のすべてが神に対して背を向けている中で、主イエスだけがその「不信仰」に立ち向かい、父なる神様とどこまでも共に歩んでおられるのです。

 主イエスは世の「不信仰」を嘆かれましたが、しかし主は、ただそれを傍観者として批判し、審くようなお方ではなく、この世に来てくださり、私たちと共に生きてくださるお方です。
 「その子をわたしの所に連れてきなさい」と主は言われます。
 こうして、主イエスと霊との対決が始まります。「霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった」。汚れた霊は主イエスに挑みかかり、この子を支配し続けようとしたのです。主が「いつごろから、こんなになったのか」とお尋ねになると、父親は答えます。「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました」。
 ここに、神の力と悪魔・サタンの力の違いがはっきりと表れています。神の力は人を生かす力であり、愛の力です。それに対してサタンの力は人間を「殺そうと」する力であり、破壊する力・憎しみの力です。
 21世紀の現代を生きる私たちは、悪霊と聞くと笑うかもしれませんが、でも人を苦しめるこのような力は、今も確かにあります。このように、人を憎み、破壊することによって、この子に対する支配を確立しようとする悪霊に対して、主イエスは、愛の力をもって立ち向かわれるのです。

 この子の病歴を尋ねる主イエスに対して、父親はこれまでの苦しい歩みを語り、「しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」と願います。「できますれば」というこの一言の中に、この父親の悲しい経験が表れ出ているように思うのです。本当に心優しい父親であったのでしょう。彼は子どもの癒しを願ってあらゆる方法を試してきたのです。でも、その度ごとに期待は裏切られ、前にもまして深い絶望を味わわなければなりませんでした。その時の期待が大きければ大きいほど、絶望も大きかった。その苦しみの中で、本当に信じて依り頼むことをやめるようになりました。なぜなら、本気で信頼して身を任せたら、その信頼が裏切られた時の絶望に耐えられないからです。
 だから父親は主イエスに向かって、「できますれば」と付け加えるのです。“申し訳ありませんが、私はあなたに対して全身全霊では期待できません。なぜなら、もし、その期待が裏切られたら、これ以上私は耐えられませんから。現に、あなたのお弟子たちも何もできなかったのです”。「できますれば」というこの一言の中に、父親のこのような思いが込められていたのではないかと思うのです。
 しかし、言うまでもなく、このような父親の在り方は〈信仰〉と呼べるものではありません。全能なる神様に向かって〈もし、できるならば〉と言うのは、神に対する絶対的な信頼を放棄したということであり、それはすなわち〈不信仰〉です。主イエスは、それをただちに見抜かれて、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」と、彼の不信仰をえぐり出されたのです。
 主イエスの鋭い指摘に対して父親は即座に「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」と叫びました。これは、矛盾した言葉です。一方では「信じます」と言いつつ、他方で「不信仰なわたし」と言っている。でも、これこそが正直な信仰者の姿なのではないでしょうか。「信じます」という信仰に賭けた自分と、「不信仰なわたし」という信じ切れない自分とのせめぎ合いが、ここに表れているのです。

 私たちは皆、誰しも、神様に対して自分を委ね切ることができない「不信仰なわたし」を抱えています。しかし、その「不信仰なわたし」にして〈自分〉の中に閉じこもり続けるのか、逆にその「不信仰なわたし」を丸ごと神様のほうに、神の愛の力の中に投げ込んでいくのか。父親が「信じます」と告白した時、彼はもはや、自分の周りに安全圈を作っておいて、その中に神の力を引き入れようとするような在り方を断ち切ったのです。そして信じることのできない〈自分〉をそのまま、神の力の中に投げ込んだのです。神様に全身全霊をもって望みを置き、依り頼んだ、彼のこの生き方。新しい世界へのジャンプ。これこそが信仰なのです。そこから、神様と共にある全く新しい命が始まっていく。“さあ、信じられないあなたを、丸ごと私に差し出しなさい。私を全身全霊で信じなさい。その時、あなたはまことの命を与えられる”というこの呼びかけ――に応えて、父親は主イエスの中に、ありのままの自分を投げ込んでいったのです。
 信仰ということを考える時、私たちはいつも自らの中にある〈自分の確信〉を物差しとして考えていることが多いのではないでしょうか。でもそれは、実は、信仰とはまったくかけ離れたことです。自分の中に確かさを求めることが、信仰なのではありません。
 “自分の中の確信”が基準になると、どうなるか。それは、ある意味でとても恐ろしいことです。一口に〈信じる〉と言っても、いろんな信じ方があります。〈迷信〉や〈妄信〉だって、信仰と言えば言えなくはないでしょう。でも、それが本当の信仰なのでしょうか。自分の頭の中で勝手に神のイメージを作り上げて、それに対して一方的な確信を抱き、“私は今、こんなに信仰に燃えている”と言う。それは、まことの信仰とはやはり違うのだと思うのです。

 父親が叫んだ「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」というこの言葉、これは私自身もたいへん好きな言葉であり、また信仰の本質を表した言葉であると思います。本当の信仰とは、私たちが “私の信仰、自分の確信” と自らに固執し続けることではなく、むしろ、その〈自分、自分〉としがみつき続ける自分を捨てて、神様の招きに応え、弱さも愚かさも抱えたありのままの自分を神の前に投げ出して、依り頼んでいくことなのです。この父親が主イエスに招かれたように、私たちも主に招かれています。その招きに応え、全身全霊をもってこのお方に依り頼んでいきたいと思うのです。
 この父親は、主イエスの前に立っています。生ける神様に招かれ、神に出会っています。最初はそのことに気付かないのですが、やがてわかってきます。彼の言葉の劇的な変化にそのことが表れています。まず22節で、彼は「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」と主に願い出ています。この父親は我が子のために、「わたしどもをあわれんでお助けください」と願い出ている。
 でも、それに対する「信ずる者には、どんな事でもできる」という主の宣言は、子どもではなく、その父親自身の姿を照らし出しました。今、父親はただ一人、主イエスの前に立っています。信じようとするけれども信じることができない「不信仰な」自分自身の姿を照らし出されて、立っている。しかし、そこにこそ主イエスの招きがあります。たとえ信仰がないことが明らかにされても、“もうお前はダメだ”といって退けられるのでなく、“そのようなあなたを、丸ごとそのまま引き受けよう。そのためにこそ私はこの世に来たのだ。そのためにこそ私は、これから十字架にかかって死ぬのだ”と主は言ってくださるのです。
 今、父親は、自分こそが憐れんでいただくべき者として立っています。子どもを助けるために願い出ていたことを忘れて「不信仰なわたしを、お助けください」と叫ぶほどに、「不信仰なわたし」すなわち一人の罪人として立っているのです。そうです。主イエスに本当に憐れんでいただく必要があるのは、汚れた霊に取りつかれたこの子だけではなく、この父親であり、罪と死に支配された私たちすべての人間であったのです。
 私たちも、この父親と共に、主イエスの前に進み出ましょう。そして「不信仰なわたしを、お助けください」とお願いしましょう。主は喜んで助けてくださいます。

 皆さんは、サルの子どもとネコの子どもの違いを知っておられると思います。サルの子どもは自分で親にしがみつき、ぶら下がります。それに対しネコの子どもは、親が子どもの首をくわえて連れて行きます。本当の信仰というのは、いわば〈サル型〉ではなく〈ネコ型〉であると思うのです。もし私たちが神様を自分の力で信じ、ぶら下がることが信仰であるならば、人生の様々な荒波の中で手を離してしまったらどうなるでしょう。あるいは、年を重ねていろんなことが分からなくなり、神様のことが認識できなくなったら、信仰もなくなってしまうことになる。何より、死を超えて神様にしがみついていることなど、誰にもできはしません。そうすると、誰も自分の信仰によっては救われないということになります。
 本当の信仰とは、そんなものではありません。本当の信仰とは、神様が私たちを永遠の愛の御手の内に包んでおられることを知ることです。ネコ親が子どもの首を大事にくわえて連れて行くように、復活の主ご自身が私たちを〈罪〉と〈死〉をくぐり抜けて、〈永遠の命〉へと連れて行ってくださる。そのことを信じるのです。“弱いままでよいのだ。ダメなままでよいのだ。ありのままのあなたを、私が連れて行こう”、この主イエスの声に招かれて、「不信仰なわたしを、お助けください」と叫び、自分を明け渡す。これが本当の信仰です。

 私たちすべての者が今、いろんなものに支配され、様々な囚われの中にあります。そのことを本当に知る必要がある。私たちはそれを汚れた霊や悪霊とは呼んでおりませんが、神様から引き離そうとする力は、今もなお確かに私たちを取り囲んでおり、私たちはしばしば、いや常に、まことの神ならぬものに、実際に依り頼んで生きているのです。
 皆さんは今、何に依り頼んで生きておられるでしょうか。それは、本当に皆さんの命を救うことができるでしょうか。私たちは、自分で自分の人生を保証しようとしてみたり、富や権力やこの世のものが自分の命を保証してくれると錯覚したりしています。でも神様以外のものに依り頼み、神以外のところに自分の命の保証を求めること、それが〈不信仰〉であり、聖書が語る〈罪〉と〈死〉なのです。汚れた霊に取りつかれた子どもも父親も、私たちも、同じように〈死〉へと向かっている存在なのです。
 しかし主イエス・キリストは、〈罪〉と〈死〉に支配されている私たちすべての人間を深く憐れんでくださり、十字架の身代わりの死へと向かって行かれます。神の子として、「高い山」の上で栄光に留まっておられるのでなく、どこまでも低くなって私たちと共に歩み、すべての囚われから解放してくださるのです。

 主の愛は、この子どもにも豊かに注がれます。主イエスは汚れた霊を叱って言われます。「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」(25節)。主イエスと悪霊との闘いは激しく、そのために子どもは2つの力に引き裂かれて「死人のようになった」(26節)と言われています。「しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった」(27節)。この子は、主イエスの力によって「立ち上がった」。この「立ち上がった」と訳されている言葉は、〈復活する〉という意味を持つ言葉です。この子は、主の力によって、自分を縛り付ける世の力に勝利し、立ち上がったのです。私たちも、主イエスの力を身に受けて、〈罪〉と〈死〉の中から立ち上がる者とされるのです!
 このまことの救い主イエス・キリストに向かって、私たちも祈り、主イエスの許に行きましょう。

 今日の最後は、弟子たちが「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」(28節)とひそかに尋ねた場面で終わっています。主は、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」(29節)とお答えになりました。
 私たちは何のために祈るのでしょうか。神様に、自分の願いを聞かせるためでしょうか。ここで弟子たちは悪霊祓いの特別な技術・方法があるかのように考えて、その方法を問うたのです。しかし主が言われたことはテクニックに関することではなく、“神と共に生きる”ということでした。
 私たちの祈りは、自分の望むことを神様から手に入れようとするような祈りになってはいないでしょうか。“神様、あれをしてください”“この病気は、こんなふうに癒してください”“なぜ私の願いを聞いてくださらないのですか”……。時には、そのような祈りもあってよいでしょう。ただ、それだけではまだ半分なのだと思うのです。残り半分の大事なことは、神様の言葉に聴くことであり、神の働きにあずかることです。祈りは、自分の思いを神様に押し付けることではありません。むしろ、神様の思いを知ることです。祈ることを通して、神様の限りない愛を、私たちは知ります。そこから、その神の愛の御手に信頼し、委ねて生きる生き方が生まれてきます。なにしろ、父なる神様は愛する独り子を私たちのためにくださったほどのお方なのですから、この方の愛と憐れみから漏れる人は一人もいないのです。

 どんなことが私たちの身に起ころうとも、神は私たちと共に歩んでくださり、一人一人をどこまでも愛してくださっています。パウロが、ローマ書8章において力強く宣言しているとおりです。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(8:38~39)。
 私たちは祈りつつ、御言に聴きつつ、この愛の神様のもとに・主イエスのもとに、繰り返し立ち帰って行きたいと思います。今日の御言で印象的なのは、19節の「その子をわたしの所に連れてきなさい」という主イエスの招きの言葉です。人々の信仰の無さを深く嘆きつつ、しかし主は決して彼らを見捨てることなく、すべての人を御自分のもとに招いていてくださいます。この招きに応えて主の前に進み出る場所、それこそが今、私たちが献げている礼拝なのです。

祈 り
 私たちは弱く小さな者ですが、あなたの救いを「信じます」。
 どうか「不信仰なわたしを、お助けください」。


● 1226 再稼働反対!首相官邸前抗議!
ということで今週も官邸前へ。今日の午後6時の東京の気温は6度。毎度の話だけど寒いよ〜。手袋を持ってこなかったのは失敗だった。
今日の抗議は今年最後と言うこともあったのか参加者の数は多めで賑やかだった。
(中略)
いつものとおり、殆ど報道されないが(笑)、12月17日から原子力規制委員会が『高浜3号機、4号機の再稼働に関する科学的・技術的意見』のパブリックコメントの募集を行っている。締め切りは1月16日。なんだ、冬休みがあるじゃないか!(笑)。パブコメの制度を日本に押し付けた日米構造改革議定書に感謝しなくちゃな(笑)。
パブコメ
関西電力株式会社高浜発電所3号炉及び4号炉の発電用原子炉設置変更許可申請書に関する審査書案に対する科学的・技術的意見の募集について
●これに関するグリーンピースのサイト。先日のナスカの地上絵を傷つけた事件が良い例で、ボクはグリーンピースと言う団体は独善的な体質だと考えているので全く支持しない。が、意見は色々あったほうがいい。彼らが言っている、『関西地方の水源になっている琵琶湖が事故で汚染されると大変なことになる』というのは言えているかも。
1500万人の飲料水を守れ!高浜原発再稼働パブコメ、政府が国民の意見を募集中。あなたも書きませんか?たとえば、こんなことを。 | 国際環境NGOグリーンピース
●ついでに先日新聞でごく小さく報じられた『ネオニコチノイド系農薬の規制緩和』の件は重要だと思うのでリンクします。ミツバチが減ってるのはこのせいだという説がある。EUでも制限されている、そんなものをわざわざ規制を緩和するメリットなんかあるだろうか。少なくとも予防原則で臨むべきだ。
「高すぎる」ネオニコ系農薬の残留基準〜厚生労働省の案が明らかに! | 国際環境NGOグリーンピース
(抜粋引用。パブコメサイト等にはリンク先からお入りください。
 
お知らせ
家の建て替えのために、年末から年始にかけて引っ越しをすることになりました。「特別な1日」さんの毎週金曜の再稼働反対首相官邸前抗議をリンクさせていただけなくなるのが残念ですが、年末から仮住まいのネット環境が整うまで、ブログも一時中断させていただくことになります。又、El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日掲載ですので、「ギャラリー ときの忘れもの」で直接ご覧になっていただければと思います。