風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「安心して行きなさい」(マルコによる福音書5:25~34)

今日のお説教を原稿から、

「安心して行きなさい」(マルコによる福音書5:25~34)

 

 今朝ご一緒に聴く25~34節の出血が止まらない女性のいやしの奇跡は、会堂長ヤイロの娘を生き返らせるという奇跡の中にサンドイッチのように挿入された形になっています。この箇所は主イエスがヤイロの家に向かう時間の経過を表していると同時に、事態の変化をも伴っています。つまり、はじめはまだ危篤状態であったヤイロの娘は、主イエスが一人の女性をいやされることに時間をつかっておられる間に、死んでしまいます。ある人はこう考えるかもしれません。もっと急いで主イエスがヤイロの家に向かっていたら、娘が息を引き取る前に到着して、彼女に手を置いて癒し、父親の願いを聞き届けることができたかもしれないのに、と。なぜ、主イエスはそうなさらなかったのかと。

 

 わたしたちはこの二つの奇跡に注目する時、非常に重要なことを教えられるように思います。その一つは、主イエスは道の途中であっても、そこに病める人、救いを求める人がいるならば、その人のために足を止め、その人を救われ、いやされるということです。主イエスにとっては、移動時間ではあっても、それは休みの時でも無駄な時でもありません。絶えず、あらゆる機会に、主イエスは救いのみわざのためにお働きになられます。

 

 主イエスはヤイロの家へと急いでおられました。彼の娘が死にかけており、一刻も早く彼女の所に行かなければなりませんでした。けれども、主イエスはその途中で、救いを求める一人の女性を見過ごしにはなさいません。この女性のために足を止め、大切な時間を取ることを惜しまれません。主イエスはわたしたち一人一人の救いのためにも、大切な時間を惜しまず、のみならず、ご自身の命をすら惜しまずにおささげくださいます。

 

 しかし、それではヤイロの娘の方はどうなってしまうのか、という疑問が生じるでしょう。この女性のために時間を費やして、ヤイロの家に着くのが遅くなり、それで娘は死んでしまったのではないのか。もっと早くに行くべきだったのではないか。先に主イエスに助けを求めたのはヤイロの方なのだから、彼の願いを優先させるべきではなかったのか。そうすれば彼の娘は死なずに済んだかもしれないのに。

 

 この疑問から、わたしたちはもう一つの重要なことを教えられます。主イエスが道の途中で時間を取り、ヤイロの家に到着が遅くなったために娘が死んでしまったことによって、次に主イエスが死んでしまった娘を生き返らせるという、より大きな奇跡が用意されることになったのだということ。危篤状態の人をいやし、起き上がらせるということも偉大な奇跡ですが、既に死んでしまった人を生き返らせるという、さらに大きな奇跡をわたしたちはやがて見ることになるのです。

 

 主イエスが道の途中で足を止め、一人の女性の救いのために時間を取られたということは、彼女にとっては大きな恵みであったのはもちろんですが、ヤイロと彼の娘にとって、そしてこのみ言葉を聴いているわたしたちにとっても、決して無駄な時間だったのではない、むしろ大きな意味を持つようになったのだということ、主イエスはヤイロとその娘を見捨てられたのでは決してなかったのだということ、いやむしろより大きな奇跡を見て信じる信仰へと導いておられたのだということ、それらをわたしたちはここで教えられるのです。主イエスはしばしばそのようにして、わたしたちの目には遠回りと見えるような道を通って、遅いと思えるような方法によって、しかもわたしたちが望んでいた以上の大きな恵みをお与えくださるのです。

 

 では、最初のいやしの奇跡について聴いていきましょう。「さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(25~26節)。ここには、この女性の病気がどんなにか悲惨なものであったかが描かれています。人間のあらゆる手段がすべて空しく終わり、手を尽くせば尽くすほどにそれが彼女の肉体の苦痛を増し、経済的にも精神的にも彼女の苦しみを増すのみであったことが語られています。女性として成人に達してから12年間と言えば、彼女の青春のすべてであり、人生のほとんどが病気との戦いであったと言えます。しかも、これからも病気が治る見込みは全くありません。彼女にとってはもはや地上には何の楽しみも喜びも希望もないかのように思えました。

 

 でも、たとえ人間のすべての努力が空しく終わるしかないとしても、地上に何一つ希望を見いだせないとしても、それで彼女の生きる希望がすべてなくなったのではありません。いやむしろ、地上の希望がすべて消え失せた時にこそ、天からの光が、神さまからの希望が現れるのです。神さまが天からこの地上にお遣わしになられた御子、主イエスという希望が光輝くようになるのです。

 

 27~28節を読みましょう。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである」。彼女は主イエスに最後の望みを託しました。自分の悲惨な人生から救ってくださる方は、もしかしたらこの方かもしれないと期待をかけました。主イエスに対する彼女の期待は決して裏切られることはありません。

 

 でも、彼女は真正面から主イエスに向かって行ったのではありませんでした。群衆の中に紛れ込んで、自分の正体を隠して、しかも主イエスの後ろから近づいていき、主イエスの服に触ろうとしたのです。レビ記15章19節以下の律法によれば、出血がある女性はその期間宗教的に汚れているとされ、彼女に触る人も汚れるとされていたので、人と接触することを避けてそうしたのかもしれません。しかし、そうであるとしても、彼女は主イエスに触ることによって主イエスもまた普通の人のように汚れるというようには考えなかったのです。むしろ、主イエスが自分の汚れを清めてくださる方であり、自分の病をいやすことがおできになる方だと信じたのでした。

 

 ある意味、彼女の求め方は間違っていました。にもかかわらず、主イエスの溢れるばかりの力と恵みは、服を通しても彼女に伝達されました。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」と29節に書かれています。主イエスの力と恵みは少しも無駄になることはありません。かすかな望みを抱いて、服に触ることしかできなかったこの女性にも、主イエスの力と恵みは確実に注がれ、彼女に確かな変化をもたらしました。彼女は長く病んでいた重い病からいやされたのです。29節に「すると、すぐ」と書かれており、30節でも、日本語訳では省略されていますが、「すると、すぐ主イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づかれて」と書かれていて、主イエスの力と恵みが少しも無駄にならずに、勢いよく一人の病める女性に集中的に注がれたことが強調されています。ほかにも、主イエスの服やお体に触った人がいたのに違いありません。けれども、その人たちには何の変化も起きていません。主イエスに助けを求めて必死にしがみつこうとするこの女性に集中して主イエスの力と恵みが注がれています。

 

 主イエスは、しかしそれだけで良しとはなさいません。この女性の病気がいやされたことだけで良しとはなさいません。彼女が群衆の中に隠れたままでいることを良しとはなさいません。彼女が後ろからご自分に近づくことを良しとなさいません。主イエスは彼女の方に顔を向けられます。主イエスの目が彼女に注がれ、彼女との真実の出会いを生み出していきます。その出会いによって、肉体の病がいやされるだけでなく、その魂が救われるためです。32節にこのように書かれています。「しかし、イエスは、触れた女を見つけようと、辺りを見回しておられた」。主イエスは傷つき失われた一人を見いだすまで、探し続けられます。その人と真実な出会いをするために。そのようにして、彼女を真実の信仰へと導かれるのです。

 

 33~34節を読みましょう。「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」。いやされた女性は群衆の中から出て、主イエスのみ前に進み出ます。主イエスのみ前に立たされます。主イエスの大きな力と恵みを知って恐れおののきながら、主イエスに対してすべてを告白します。ここに至って、主イエスといやされた女性との真実の出会いが起こり、真の救いと信仰が生み出されました。

 

 主イエスは女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。この女性の信仰は最初はとても信仰とは言えない、迷信のようなものでした。群衆の中に紛れて、自分を隠し、主イエスとの人格的な出会いを避けていました。けれども、主イエスご自身がそのような彼女を探し出し、見いだしてくださり、主イエスの方から彼女の方に近づかれ、真実の出会いを作り出してくださったのです。主イエスはわたしたちの貧しく欠けの多い信仰をも見ていてくださいます。時に間違ったものを求めたり、時に傲慢になったり、時に迷ったりするわたしたちを、それにもかかわらずお見捨てにならずに、わたしたち一人一人を探し求めてくださり、目を注ぎ、わたしたちの信仰を養い育ててくださいます。

 

 33節に「恐ろしくなり、震えながら、ひれ伏し」と書かれています。主イエスの大きな力と救いの恵みを知らされたこの女性は、恐れおののかざるを得ません。それは、そのような大きな救いの恵みを受けるに値しない貧しく欠け多く、罪に汚れている自分の自覚であり、告白であり、また同時に、そのような自分に全く無償で、ただ一方的に主イエスの側から与えられている恵みに対する大きな感謝でもあります。その恐れと感謝は、主イエスへの礼拝の行為となります。この女性は、これから後、主イエスへの畏れと感謝のうちに礼拝する信仰者として、生きていくのです。

 

 「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)。主イエスを信じる信仰がわたしたちを救います。たとえわたしたち自身には何の救われるべき良きものがなくとも、罪と汚れだけであったとしても、主イエスの十字架の福音を信じるならば、その信仰によって主イエスはわたしを救ってくださいます。その信仰に生きる時に、わたしたちの生涯は主イエスから与えられる平安に満たされ、どのような険しい道をも安心して進むことができるのです。

 

 口語訳聖書ではここは「すっかりなおって、達者でいなさい」となっています。原文を直訳すれば、「あなたの病から健康になって」です。主イエスはここで、一つの病気が治ったということではなくて、彼女の人生がすっかり、根本的に癒され、新しくなることを語っておられるのです。それが、信仰によって救われた者に与えられる恵みです。信仰によって救われた者は、安心して生きることができるのです。健康で、元気に、達者に暮らすことができるのです。それはもう病気にならないし、老いることもなくなるということではありません。肉体をもって生きている限り私たちは病気にもなるし、老いていくし、最後は死を迎えます。それらのことが無くなるのではありません。しかし、信仰によって癒され、新しくなった者は、病や老いや死においても、安心して、元気に、達者に歩むことができるのです。主イエス・キリストとの交わりによってです。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受け、それを自ら味わって下さった主イエスが、病や老いや死を味わっていく私たちと共にいて下さるのです。そして私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死が復活へとつながっていたことを知っています。父なる神様は死の力を打ち破って、主イエスに復活の命を与えて下さったのです。そしてその復活の命を、主イエスを信じる者たちにも与えて下さると約束して下さっているのです。ですから、主イエスとの交わりの中で味わう死は、復活の命へとつながっているのです。ヤイロの娘の復活はそのことを示しています。主イエスが父ヤイロの願いを聞いて共に歩み出して下さったからには、肉体の死は、眠っているのと同じなのです。目覚める時が与えられるのです。十二歳だったヤイロの娘の復活と、十二年間病気で苦しんできたこの女性の癒しは一つのことを指し示しています。主イエス・キリストとの交わりに生きる者とされる時に、私たちは癒され、新しくされて、安心して、元気に、達者に生き、そして復活の希望の内に死ぬことができる者とされるのです。 

 

 安心して行きなさい。

 それはGO IN PEACE でありLIVE IN PEACE です。

 さあ、ここから、遣わされた現場へ出かけていきましょう。

 

 

アガパンサス木槿、擬宝珠。